永田吉右衛門 (2代)
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2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日[1][2] - 1918年(大正7年)2月26日[3][4])は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町長。幼名は尚次[3]。
経歴
[編集]初代永田吉右衛門の長男として[1]、岐阜県大野郡高山町(現高山市)に生まれる[3]。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する[1]。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた[2]。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した[4]。
財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行[注 1]各取締役、飛騨銀行[注 2]取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行[注 3]、十二銀行[注 4]各監査役を歴任した[4]。また、五松庵不及と号して俳句を能くした[2]。
1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選[4]。衆議院議員を1期務めた[4]。在任中は高山線の開通実現に向け尽力した[2]。1918年(大正7年)2月、議会開会中に丹毒症に罹り同月26日、東京にて没した[2]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。
- 岐阜県郷土偉人伝編纂会 編『岐阜県郷土偉人伝』岐阜県郷土偉人伝編纂会、1933年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。