永山武敏
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永山 武敏(ながやま たけとし、1871年11月4日〈明治4年9月22日[1]〉 - 1938年〈昭和13年〉1月12日[1][2])は、明治から大正期の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍歩兵大佐。貴族院男爵議員。霊友会初代会長。
経歴
[編集]陸軍士官・永山武四郎の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い、1904年(明治37年)6月21日、男爵を襲爵した[1][3][4]。
陸軍士官学校(6期)に入り[5]、1895年(明治28年)1月1日に卒業し[6]、同年5月22日、歩兵少尉に任官[2][7]。以後、歩兵第25連隊中隊長、同連隊補充大隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長、歩兵第26連隊大隊長、独立守備第6大隊大隊長などを歴任[2][3]。1917年(大正6年)8月6日、歩兵大佐に昇進し[8][9]、同年12月1日、予備役に編入され[2][8][10]、1931年(昭和6年)に退役した[3]。
1919年(大正8年)5月10日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[11][12]、公正会に所属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した[2]。
1930年、小谷安吉・小谷喜美・久保角太郎に乞われて霊友会会長となる。墓所は多磨霊園 (3-1-14-35)。
栄典
[編集]親族
[編集]- 母 永山トメ(伊集院源之丞の二女)[1]
- 妻 永山コト(西田守信[注 1]の長女)[1]
- 長男 永山敏行(男爵) 1945年に死去し、永山家は襲爵手続きを行わず1946年5月に栄典喪失[1]。
- 四男 永山武臣(松竹会長)[1]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 元薩摩藩士、北海道開拓使吏員、海運業者。金子郡平・高野隆之編『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所、1914年、110頁。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成 下巻』255-256頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』80頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第10版 下』ナ139頁。
- ^ 『官報』第6292号、明治37年6月22日。
- ^ 『陸軍士官学校』231頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118頁。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正3年7月1日調』117頁。
- ^ a b 『陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿 大正12年4月1日調』60頁。
- ^ 『官報』第1505号、大正6年8月7日。
- ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ 『官報』第2029号、大正8年5月12日。
- ^ 『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。
参考文献
[編集]- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正3年7月1日調』陸軍省等、1914年。
- 陸軍省編『陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿 大正12年4月1日調』偕行社、1923年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 永山武四郎 |
男爵 永山(武四郎)家第2代 1904年 - 1938年 |
次代 永山敏行 |