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水野長勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
水野 長勝
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文元年(1532年
死没 慶長14年(1609年)11月3日
別名 国丸、藤助、新右衛門
戒名 浄圓
墓所 昌国寺武蔵国男衾郡赤浜)
官位 従五位下石見守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 織田信長北条氏政北条氏邦)、徳川家康
氏族 水野氏
父母 父:水野成清、母:於丈の方水野忠政娘)
貞正、女子(黒川正秀の妻)
養子:忠貞
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水野 長勝(みずの ながかつ)は、戦国時代武将。母・覚法院殿徳川家康の母・伝通院殿の姉であり、長勝は家康の従兄弟にあたる[1][2]

生涯

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水野成清の子として生まれる。

天文2年(1533年)3月、2歳のとき、父・成清が自害し、母と共に刈谷に逃れる[3]。母が松平家広と再婚し、以後、家広に養育された[3]

成長後は、織田信長に仕えた[3]尾張国石ヶ瀬川の戦いで戦功を挙げ、感状を与えられた[3]。信長の死後は北条氏政に仕え、北条氏邦に属した[3]

後北条氏滅亡後の天正19年(1591年)7月、旗本に取り立てられた[1][3]武蔵国男衾郡のうち、赤浜・能増2か村800石を賜り、赤浜村に陣屋を置いた[1][2][3]

慶長7年(1602年)5月、伏見城の城番となり、奏者番を兼ねた[3]。このとき大和国宇智郡葛下郡式下郡のうちで2000石の加増を受けた[3]

慶長9年(1604年)6月22日、従五位下石見守に叙任[3]

慶長14年(1609年)11月3日、伏見において死去[3]。享年78[3]法名は浄圓[3]。昌国寺に葬られた[3]

娘と黒川正秀北条氏房家臣、後旗本、次男の黒川正直長崎奉行大目付)の長男・忠貞が養子となり、跡を継いだ[3]

昌国寺

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天正年間(1573年 - 1592年)、赤浜に昌国寺(曹洞宗)を建てたと伝わる[4][5]開山は曜室英旭[4]。慶長2年(1597年)5月、母・覚法院殿が亡くなり、昌国寺に葬る[2]。同4年(1599年)2月、昌国寺を菩提寺とする[2]

脚注

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参考文献

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外部リンク

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