水町庸子
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みずまち ようこ 水町 庸子 | |
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本名 | 三国 むめ子 |
別名義 | 水町 玲子 |
生年月日 | 1912年3月24日 |
没年月日 | 1941年1月11日(28歳没) |
出生地 | 福井県 |
死没地 | 京都府 |
職業 | 女優 |
活動期間 | 1933年 - 1941年 |
配偶者 | 三国周三 |
著名な家族 |
水町瑛子(娘) 小林のり一(孫) |
所属劇団 | ムーランルージュ新宿座 |
水町 庸子(みずまち ようこ、本名︰三国 むめ子、1912年3月24日 - 1941年1月11日)は、福井県出身の女優。夫は俳優の三国周三、娘は女優の水町瑛子(三邦瑛子)。
生涯
[編集]三重県立津高等女学校(現 三重県立津高等学校)を中退後、1933年、21際の時に新宿の大衆劇場ムーランルージュ新宿座に入団。入団当初は「水町玲子」の芸名で地味ながら堅実な演技をこなす舞台女優として活躍した。徐々に女優としての頭角を現し、美人であった事も加わってトップ女優の仲間入りを果たしていく。
その後、同じムーラン所属の俳優であった三国周三と結婚、1938年に芸名を「水町玲子」から「水町庸子」に改名して「冬の宿」で映画デビューを果たす。映画デビュー後は様々な映画に出演し、味わい深い演技を見せる名女優として成長していった。
しかし、1941年に中川信夫監督の映画「暁の進発」を撮影中、急性の盲腸炎を発症し、手当ての甲斐なく滞在先の京都の宿で死去。享年28。夫の三国周三は彼女が急死した事を知って大いに悲しんだと言う。
なお、娘の水町瑛子は後に三木のり平と結婚し、息子でコメディアンの三木のり一を儲けている。
主な出演作品
[編集]映画
[編集]- 『冬の宿』(1938年、東京発声)
- 『鶯』(1938年、東京発声)
- 『胡椒息子』(1938年、東宝映画東京)
- 『美はしき出発』(1939年、東宝映画東京)
- 『ロッパの頬白先生』(1939年、東宝映画東京)
- 『出征譜』(1939年、東宝映画東京)
- 『幼き者の旗』(1939年、東宝映画京都)
- 『われ等が教官』(1939年、東宝映画東京)
- 『街』(1939年、東宝映画東京)
- 『愛の設計』(1939年、東宝映画京都)
- 『東京の女性』(1939年、東宝映画東京)
- 『松下村塾』(1939年、東京発声=文部省)
- 『光と影 前篇』(1940年、東宝映画東京)
- 『光と影 後篇』(1940年、東宝映画東京)
- 『春よいづこ』(1940年、東宝映画東京)
- 『彦六なぐらる』(1940年、南旺映画)
- 『蛇姫様』(1940年、東宝映画東京)
- 『姉の出征』(1940年、東宝映画京都)
- 『嵐に咲く花』(1940年、東宝映画京都)
- 『ハモニカ小僧』(1940年、東宝映画東京)
- 『続蛇姫様』(1940年、東宝映画東京)
- 『閣下』(1940年、東宝映画京都)
- 『娘時代』(1940年、東宝映画東京)
- 『時の花形』(1940年、東宝映画東京)
- 『熱砂の誓ひ 前篇』(1940年、東宝映画東京=華北電影)
- 『熱砂の誓ひ 後篇』(1940年、東宝映画東京=華北電影)
- 『暁の進発』(1941年、東宝映画京都)