水品平右衛門
水品 平右衛門(みずしな へいうえもん[1]、文久元年9月3日〈1861年10月6日〉 - 1918年〈大正7年〉8月11日)は、明治・大正時代における日本の実業家、政治家である。信濃毎日新聞記者から政界に入って長野市会議員や衆議院議員(当選2回)を歴任し、実業界では長野市所在企業の役員や日本建築用製紙社長を務めた。
来歴
[編集]水品平右衛門は、文久元年9月3日(新暦:1861年10月6日)、水品平内の長男として生まれた[2]。水品家は善光寺門前町の岩石町(現・長野市岩石町)に居を構える旧家で、綿商を家業とする[3]。「平右衛門」のは当主が代々襲名した名である[3]。
水品は加藤天山の門で学んだのち長野県師範学校に入り、さらに東京の尺振八塾で英学、明治法律学校で法学を専攻した[1][4]。その後は信濃新聞社(「信濃毎日新聞」を発行)の記者となり、「鉄渓」の筆名で活動する[1]。同社では主筆代理に進んだのち[1]、1887年(明治20年)取締役に就任した[4]。新聞社時代には自由民権運動に関わり、内藤魯一の信州遊説を支援し、条約改正反対運動に参加した[1]。
1897年(明治30年)6月、長野市の市制施行に伴う第1回市会議員選挙に出馬し当選、市会議員となった[5]。初市会では議長代理者(議長は前島元助)に選出される[5]。1900年(明治33年)4月の半数改選で再選された[5]。次いで1902年(明治35年)8月10日実施の第7回衆議院議員総選挙に長野政友倶楽部から推されて立候補した[6]。選挙区は長野県市部選挙区(長野市)、政党は立憲政友会からで、山田禎三郎を破って衆議院議員に当選した[6]。しかし同年12月に解散され次の第8回総選挙に立候補しなかったため、在任期間は短い[7]。
長野市会では1904年(明治37年)3月、議長前島元助の衆議院議員転出に伴い議長に昇格し、1906年(明治39年)1月まで在職した[5]。同年6月の市会議員半数改選でも再選されている[5]。国政では1908年(明治41年)5月15日に実施された第10回衆議院議員総選挙に再び長野県市部選挙区・立憲政友会から立候補し、小島相陽を破って再選された[8]。4年後、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙にも立候補したが、笠原忠造に敗れ落選した[9]。
実業界では長野市末広町へ転居の上で石炭商を開業した[3]。1905年の商工案内には末広町で石炭・セメント商を営むとある[10]。1900年、市内商工業者による商業会議所として長野商業会議所(長野商工会議所の前身)が立ち上げられると、初代議員の一人となる[11]。1905年(明治38年)4月には第3代となる商業会議所会頭に選ばれ、以後1911年(明治44年)3月まで在職した[12]。加えて市内企業の役員を複数兼ねた。まず1900年版の役員録には長野貯蔵銀行(頭取前島元助)で取締役を務めるとある[13]。1901年(明治34年)1月長野電灯(会長小坂善之助[14])の監査役に就任し[15]、翌年8月一旦辞任したものの[16]、1904年7月には同社の取締役へ転じた[17]。さらに1905年1月には信濃新聞社の取締役に復帰した[18]。同社では社長の小坂善之助が病気療養中のため水品が代理で社務を担った[19]。
会社役員は1909年(明治42年)7月長野貯蓄銀行取締役[20]、1912年5月長野電灯取締役[21]、同年7月信濃新聞社取締役の順で辞任した[22]。その一方、1910年(明治43年)4月に日本建築用製紙という建材メーカー(資本金10万円・本社は東京市本所区)が発足すると取締役の一人となった[23]。1911年版の役員録では同社の専務(社長不在)[24]、1913年版の役員録では同社の社長を務めるとある[25]。
1918年(大正7年)8月11日に死去[26]。56歳没。死去時まで日本建築用製紙取締役に在任していた[27]。家業は養嗣子の水品一象が継いだ[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『長野歴史人物大事典』678-679頁
- ^ 『人事興信録』第3版み70頁。NDLJP:779813/583
- ^ a b c d 『地方発達史と其の人物 長野県の巻』人物編長野市27頁
- ^ a b 『人事興信録』1030頁。NDLJP:779810/589
- ^ a b c d e 『長野県政党史』下巻670-676頁
- ^ a b 『長野県政党史』上巻642-647頁
- ^ 『長野県政党史』上巻654-659頁
- ^ 『長野県政党史』下巻42-44頁
- ^ 『長野県政党史』下巻107-109頁
- ^ 『長野商工案内』商工人名録36頁。NDLJP:803732/82
- ^ 『長野商工会議所六十年史』68-69頁
- ^ 『長野商工会議所六十年史』525頁
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第8回333頁。NDLJP:780115/542
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第8回344頁。NDLJP:780115/548
- ^ 「商業登記」『官報』第5272号附録、1901年2月1日付
- ^ 「商業登記」『官報』第5741号、1902年8月22日付
- ^ 「商業登記」『官報』第6341号、1904年7月18日付
- ^ 「商業登記」『官報』第6469号、1905年1月25日付
- ^ 『新聞名鑑』241-244頁。NDLJP:897421/130
- ^ 「商業登記」『官報』第7835号、1909年8月6日付
- ^ 「商業登記」『官報』第8681号附録、1912年5月29日付
- ^ 「商業登記」『官報』第8732号、1912年7月27日付
- ^ 「商業登記」『官報』第8062号附録、1910年5月10日付
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第19回上編65-66頁。NDLJP:780123/123
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第21回上編78頁。NDLJP:936465/143
- ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』623頁
- ^ 「商業登記」『官報』第1824号附録、1918年8月30日付
参考文献
[編集]- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1997年。
- 伊東淑太 編『長野商工会議所六十年史』長野商工会議所、1962年。NDLJP:2497422。
- 衆議院・参議院 編『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。NDLJP:9673686。
- 商業興信所 『日本全国諸会社役員録』
- 人事興信所 編 『人事興信録』
- 鈴木善作 編『地方発達史と其の人物 長野県の巻』郷土研究社、1941年。NDLJP:1683415。
- 長野商業会議所 編『長野商工案内』長谷部耕太郎、1908年。NDLJP:803732。
- 丸山福松『長野県政党史』上巻、信濃毎日新聞、1928年。NDLJP:1269252。
- 丸山福松『長野県政党史』下巻、信濃毎日新聞、1928年。NDLJP:1269273。
- 光永真三 編『新聞名鑑』日本電報通信社、1909年。NDLJP:897421。
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