比企則員
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 永禄元年(1558年)[注釈 1] |
死没 | 元和2年3月19日(1616年5月4日)[1] |
別名 | 通称:左馬助 |
戒名 | 元光[1] |
墓所 | 埼玉県比企郡川島町中山の金剛寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 上田氏(上田憲定)、結城秀康、徳川家康 |
氏族 | 比企氏 |
父母 | 父:比企政員 |
子 | 義久 |
比企 則員(ひき のりかず)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武蔵国の武将、江戸幕府旗本。比企能員の末裔を称し、比企郡中山村(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を中興して一族の菩提寺とした。
生涯
[編集]永禄元年(1558年)[注釈 1]、比企政員(左馬助)の子として生まれる[1]。父の政員は関東の上杉家[注釈 2]に仕え、永禄4年(1561年)には北条氏と戦って功績があったという[1]。
『寛政重修諸家譜』によれば、則員は幼少期に、上田上野介朝広[3](上田憲定[4])のもとにあった[1]。上田氏はもともと扇谷上杉家の重臣として知られた一族で、武蔵松山城を本拠とし、小田原北条氏の傘下に入った国衆である[5]。天正年間(1573年 - 1592年)には常陸国に出陣して筑波山麓で「真壁道無」(真壁久幹)と戦い、武功を挙げた[1]。また、下野国の皆川氏と太平山で戦って高名であったという[1]。また、天正年間に中山(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を再興して一族の菩提寺としたとされている[6][7]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、松山城も前田利家らの軍勢に包囲されるが、この際に比企則員も守備陣に加わっている[7]。則員はその後比企郡で蟄居し、慶長6年(1601年)に結城秀康に召し出されたものの、まもなく病気によってふたたび蟄居した[1]。その後、慶長16年(1611年)に則員の子・比企義久(次左衛門)が徳川家に仕えると[1]。則員も慶長18年(1613年)に本多正信によって川越で召し出された[1]。
慶長19年(1614年)、則員が病気であると聞いた家康は、「万病円」という薬を100粒与えるとともに、特に言葉を伝えた[1]。元和2年(1616年)没、享年59[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.862。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之188』100/113コマ。
- ^ “第六編>第五章>第三節>二 後北条氏の敗北>A 小田原合戦”. 昭島市史. 2024年8月7日閲覧。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之189』101-102/113コマ。
- ^ “第6章>第2節>小田原衆所領役帳と北武蔵”. 北本市史 通史編 古代・中世. 2024年8月23日閲覧。
- ^ “鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡”. ちょこ旅埼玉. 一般社団法人埼玉県物産観光協会. 2024年8月7日閲覧。
- ^ a b “清月山金剛寺(せいげつざんこんごうじ・川島町)”. 東松山観光. 一般社団法人東松山市観光協会. 2024年8月7日閲覧。