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比企則員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
比企 則員
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄元年(1558年)[注釈 1]
死没 元和2年3月19日(1616年5月4日)[1]
別名 通称:左馬助
戒名 元光[1]
墓所 埼玉県比企郡川島町中山の金剛寺
幕府 江戸幕府
主君 上田氏(上田憲定)、結城秀康徳川家康
氏族 比企氏
父母 父:比企政員
義久
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比企 則員(ひき のりかず)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武蔵国の武将、江戸幕府旗本比企能員の末裔を称し、比企郡中山村(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を中興して一族の菩提寺とした。

生涯

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永禄元年(1558年)[注釈 1]、比企政員(左馬助)の子として生まれる[1]。父の政員は関東の上杉家[注釈 2]に仕え、永禄4年(1561年)には北条氏と戦って功績があったという[1]

『寛政重修諸家譜』によれば、則員は幼少期に、上田上野介朝広[3]上田憲定[4])のもとにあった[1]。上田氏はもともと扇谷上杉家の重臣として知られた一族で、武蔵松山城を本拠とし、小田原北条氏の傘下に入った国衆である[5]天正年間(1573年 - 1592年)には常陸国に出陣して筑波山麓で「真壁道無」(真壁久幹)と戦い、武功を挙げた[1]。また、下野国皆川氏太平山で戦って高名であったという[1]。また、天正年間に中山(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を再興して一族の菩提寺としたとされている[6][7]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、松山城も前田利家らの軍勢に包囲されるが、この際に比企則員も守備陣に加わっている[7]。則員はその後比企郡で蟄居し、慶長6年(1601年)に結城秀康に召し出されたものの、まもなく病気によってふたたび蟄居した[1]。その後、慶長16年(1611年)に則員の子・比企義久(次左衛門)が徳川家に仕えると[1]。則員も慶長18年(1613年)に本多正信によって川越で召し出された[1]

慶長19年(1614年)、則員が病気であると聞いた家康は、「万病円」という薬を100粒与えるとともに、特に言葉を伝えた[1]。元和2年(1616年)没、享年59[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 没年・享年からの逆算。
  2. ^ 『新編武蔵国風土記稿』は扇谷上杉家上杉朝定かとする[2]。朝定は武蔵松山城を拠点としたが、天文15年(1546年)に河越城の戦いで戦死した。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.862
  2. ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之188』100/113コマ
  3. ^ 第六編>第五章>第三節>二 後北条氏の敗北>A 小田原合戦”. 昭島市史. 2024年8月7日閲覧。
  4. ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之189』101-102/113コマ
  5. ^ 第6章>第2節>小田原衆所領役帳と北武蔵”. 北本市史 通史編 古代・中世. 2024年8月23日閲覧。
  6. ^ 鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡”. ちょこ旅埼玉. 一般社団法人埼玉県物産観光協会. 2024年8月7日閲覧。
  7. ^ a b 清月山金剛寺(せいげつざんこんごうじ・川島町)”. 東松山観光. 一般社団法人東松山市観光協会. 2024年8月7日閲覧。