武田額三
武田 額三(たけだ がくぞう、1881年(明治14年)10月25日[1][2] - 1928年(昭和3年)5月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階および勲等、軍功は従四位・勲三等・功三級。
経歴
[編集]千葉県出身[1][2][3]。農業・武田清三郎の二男として生まれる[1]。日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)、陸軍幼年学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業[1][2][4]。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる[1][4]。歩兵第57連隊付、歩兵第29旅団副官を経て、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業した[1][2][3]。
1910年12月、参謀本部員となり、1912年(明治45年)5月から同年8月までカムチャツカに出張[1]。1913年(大正2年)10月、フランス大使館付武官補佐官となり、ロシア駐在、ロシア軍従軍、ルーマニア軍従軍などを務め、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進した[1]。
1917年(大正6年)1月、参謀本部付となり、陸大教官、兼参謀本部員を務め、1918年(大正7年)8月、第3師団司令部付(イルクーツク駐在)としてシベリア出兵に出征[1]。参謀本部付(イルクーツク駐在)を経て、1919年(大正8年)9月に帰国。同年10月、ロシア大使館付武官に就任[1][3]。1920年(大正9年)6月、参謀本部付に転じ、陸大教官、参謀本部員を経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任した[1][3]。1924年(大正13年)12月、歩兵第77連隊長に転じ、1927年(昭和2年)2月、フランス大使館付武官となるが、1928年5月、パリで客死し陸軍少将に進級した[1][2][3]。墓所は青山霊園。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。