武漢肺炎
武漢肺炎(ぶかんはいえん、繁体字: 武漢肺炎; 簡体字: 武汉肺炎; 繁体字: 武漢肺炎; 拼音: Wǔhàn fèiyán 英: Wuhan pneumonia)、武漢ウイルス(ぶかんウイルス、繁体字: 武漢病毒; 簡体字: 武汉病毒; 繁体字: 武漢病毒; 拼音: Wǔhàn bìngdú 英: Wuhan virus)とは、2019年新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の呼称の一つ。中華人民共和国湖北省武漢市で初めて検出されたことにちなむ名称である。
WHOの立場
[編集]世界保健機関 (WHO) は2015年に、新たに発見された病気(感染症、症候群、その他の疾患)の正式名称に地名を用いないガイドライン(ベストプラクティス)を定めている[1]。このガイドラインでは、国際疾病分類 (ICD) における疾患名を決定する際に、社会的スティグマの助長とならないよう、病名は症状や重症性・季節性、病原体名などで構成される必要があるとし、避けるべき用語として地域名をはじめ、人名、文化・産業・職業上の言及、動物・食物の種類、および恐怖を扇動する用語を挙げている[1]。新型コロナウイルスの正式名称の検討過程においても、この考え方は踏まえられた[2]。
同様に社会的スティグマ防止を念頭として、WHOは国際赤十字赤新月社連盟や他の国連機関と共同で、COVID-19に関するコミュニケーションガイドを発行しており、この中で「武漢肺炎」や「武漢ウイルス」といった呼称を使わないよう示している[3][4]。
中国語圏における状況
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中華人民共和国政府や中国共産党は、前述のWHOによる規定を理由として、また汚名であり国際協調の妨げになるとして「武漢肺炎」の呼称に反対している[5][6][7]。またこうした名称は武漢がウイルスの起源であることを印象付けるが、同国政府は、ウイルスの起源は科学的に確定していないとし、「武漢でウイルスが発見されたこと」と「武漢がウイルスの起源であること」は異なるとの立場を示している[6][8][9]。
しかしながら、大陸の中華人民共和国政府と対立し、そのためにWHOから排除されている中華民国(台湾)や[10][5]、2019年の逃亡犯条例問題や翌年の国家安全法問題などで中央政府への反感が強まっている香港などでは、「武漢肺炎」やそれを省略した「武肺」の呼称が一般に用いられている[11][8]。特に台湾では公的機関においても用いられている。
香港における歴史的背景の1つに、かつてSARSが香港発祥との誤情報が流布した点がある。香港の代表的な民主派新聞である蘋果日報は、林忌による「なぜ武漢肺炎と呼び続けるべきなのか」という記事を載せており、林は「武漢肺炎」の呼称には病気の発祥が再び香港に転嫁されることを防ぐ意味があると説明し、前述の中国政府による説明を「歴史の改竄の準備」と批判している[8]。
また感染初期の時点では、中国国内のマスメディアにおいても「武漢肺炎」の呼称が使用されていた事例がみられる[12]。
日本における状況
[編集]WHOの指針に準じる形で、日本国政府は公式に「新型コロナウイルス」「新型コロナウイルス感染症」あるいは「COVID-19」といった呼称を採用しており、また日本国内の地方自治体もこれに従っているため、「武漢肺炎」「武漢ウイルス」といった呼称を公式には使用していない[13][14][15][16]。
東京都は、2020年(令和2年)6月に実施されたデモにおいて発言されたとされる「武漢菌をまき散らす支那人、出ていけ」などの3つの言動が「不当な差別的言動」であると同年10月13日に認定した[17][18]。
政治勢力においては、中国共産党に批判的な保守派を中心に、中国政府の責任を問う意図などから「武漢」や「中国」を含んだ名称が用いられることがある[19]。その例として、2020年(令和2年)2月14日、自由民主党所属で同党の右派系グループ「日本の尊厳と国益を護る会」の代表幹事である青山繁晴参議院議員は「WHOが決めた『COVID-19』は覚えにくいし、病気の本質が理解しづらい。『武漢熱』と呼ぶべきだ」と述べた[20]ほか、同年3月3日には同じく自民党所属の参議院議員かつ「日本の尊厳と国益を護る会」会員である山田宏が、国会答弁において「武漢肺炎」という表現を使用している[21]。また3月10日には麻生太郎副総理も「武漢ウイルスなるもの」といった発言をしている[22][23]。
民間でも「武漢肺炎」「武漢ウイルス」といった呼称は一般に差別を助長するとの公論があり、その使用は論争の対象であるが、産経新聞などの一部メディアでは使用されている[24][25][26]。産経新聞での使用について、酒井信彦は同紙上で「武漢由来に違いないから、産経新聞では必要に応じて、使用されている[26]」と説明する。一方で、新聞広告などでは当該部分の見出しを伏字で隠す処置を施して掲載した新聞社もある。一例として、産経新聞出版が刊行した櫻井よしこの著書の広告を西日本新聞に掲載したところ、新聞社内での審査で「武漢肺炎」の語が通らず「●●肺炎」と伏せ字にされた上で広告掲載するという措置が取られたことがあり、産経新聞出版はこれに対し自社のTwitterアカウントで「武漢発を忘れてはいけません」と抗議した[27]。またメディアにおいて、こうした呼称はしばしばナショナリズムや中国責任論、陰謀論と結びつきやすいとの分析がある[28]。巷間での使用例としては、喫茶店で「武漢風邪で暫くお休みします」という貼り紙が貼られるといった事例がある[25]。
一方、中国以外の各地で発生した変異株については、当初は「イギリス株」「南アフリカ株」「インド株」などと国名を冠して呼ばれていたが、WHOは2021年5月31日にギリシア文字を使用する新たな命名法を採用した。しかし2021年夏の時点ではまだ、日本のマスメディアでは「インド型」などの表記が見られた[29][30]。その後は日本のマスメディアでも「デルタ株」「オミクロン株」といった、WHOの命名法に沿った用語を使用するようになっている。
アメリカ合衆国における状況
[編集]第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプは、その政権期でのCOVID-19の流行以降、中国政府に敵対的姿勢を取っており、同ウイルスをたびたび「中国ウイルス(英: Chinese virus / China virus)」や、カンフーにちなんだ「カンフルー(英: Kung-Flu)」と呼称している[31][32][33][34]。アメリカ疾病予防管理センター長のロバート・R・レッドフィールドは、このウイルスの感染被害は中国に限られていないため「中国」の名前を冠するのは不適切だと指摘した[35][36]。アジア系アメリカ人などがこの名称に起因する差別を受けたと主張しており[37][38]、2020年9月17日には野党民主党が多数を占める同国下院において、「中国ウイルス」「武漢ウイルス」といった呼称はアジア系民族に対する差別的な呼称であるとの決議案を賛成多数で採択した[39][40]。しかしトランプは在任中「中国ウイルス」の呼称を使用し続け、退任時の演説でも使用した[41]。トランプ政権のマイク・ポンペオ国務長官もこうした呼称を使い、2020年3月のG7外相会合では、新型コロナに関わる共同声明に「武漢ウイルス」の呼称を盛り込むよう働きかけたことがヨーロッパ各国の反発を招き、共同声明が見送られる事態にもなった[42][43]。
2021年よりトランプに代わって大統領となったジョー・バイデンは、「中国ウイルス」「武漢ウイルス」といった名称を禁止する大統領令に署名した[44]。
その他の類似した呼称
[編集]イタリアの中国問題専門家マルコ・レスピンティは、「中共ウイルス(英: CCP virus、中: 中共病毒)」という呼称を提案し、法輪功系の大紀元時報など「反中国共産党」を掲げる一部メディアで使用されている[45]。
同感染症やその病原体は、略称や俗称で「コロナ(corona)」とも呼ばれるが[46][47]、「コロナ」の商標や人名が風評被害やいじめの対象となったとの報道もある[48][49]。
脚注
[編集]- ^ a b “WHO issues best practices for naming new human infectious diseases” (英語). 世界保健機関 (2015年5月8日). 2022年6月30日閲覧。
- ^ 「新型ウイルスの正式名称は? WHO、汚名を着せないよう慎重に検討」『AFPBB News』時事通信社、2020年2月9日。
- ^ 世界保健機関、国際赤十字赤新月社連盟、国連人道問題調整事務所、東島仁(訳)、Yen-yu LIU(訳)「COVID-19:社会的弱者と周縁化された人々を包摂する」『科学技術社会論研究』第20巻、科学技術社会論学会、2022年、41-53頁、doi:10.24646/jnlsts.20.0_41。
- ^ “COVID-19に関する社会的スティグマの防止と対応のガイド”. 国際赤十字赤新月社連盟、国際連合児童基金、世界保健機関 (2020年4月). 2024年5月16日閲覧。
- ^ a b 「台湾での新型コロナウイルス呼称に物議「武漢肺炎」中国が反発も」『livedoor ニュース』ライブドア、2020年3月7日。
- ^ a b “中国,新型コロナで米国の24のうそに反論”. 中華人民共和国駐日本国大使館 (2020年5月9日). 2024年11月7日閲覧。
- ^ “新型コロナウイルスとの戦いに必要なのは汚名を着せることではなく科学”. 人民網日本語版. 人民日報社 (2020年3月20日). 2024年11月7日閲覧。
- ^ a b c 伍嘉誠「新型コロナウイルスとナショナリズムへの試論 ―香港を事例に」『21世紀東アジア社会学』第2021巻第11号、日中社会学会、2021年、57-73頁、doi:10.20790/easoc.2021.11_57。
- ^ 「「新型コロナ発生源は中国ではない」宣伝活動を世界で活発化…武漢ウイルス研、発生に関係か」『Business Journal』サイゾー、2020年12月10日。
- ^ “COVID-19(武漢肺炎)防疫訊息專區” (中国語). COVID-19(武漢肺炎)防疫訊息專區. 2021年1月23日閲覧。
- ^ “我們是誰?”. 香港武漢肺炎民間資訊. 2023年6月14日閲覧。
- ^ 「散布武汉肺炎不实消息 8人被警方依法查处」『中国網』中国外文出版発行事業局。オリジナルの2022年2月2日時点におけるアーカイブ。
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- ^ “新型コロナウイルス感染症関連”. 経済産業省. 2022年6月30日閲覧。
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- ^ 「中国人に『武漢菌』ヘイト認定 東京都、デモ発言公表」『』共同通信社、2020年10月13日。
- ^ 荻上チキ (2020年3月9日). “感染症に地域名をつけることのリスクーー新型コロナウィルスをめぐる「命名政治」について”. note. 2020年7月18日閲覧。
- ^ 「自民保守系議員『中国に5千円渡さない』『武漢熱と呼ぶべき』と新型コロナめぐり独自の主張」『FNNプライムオンライン』フジニュースネットワーク、2020年2月14日。
- ^ 第201回国会 参議院 予算委員会 第5号 令和2年3月3日(PDF) - 国会会議録検索システム
- ^ 第201回国会 参議院 財政金融委員会 第3号 令和2年3月10日(PDF) - 国会会議録検索システム
- ^ 「麻生氏 “また”差別助長発言/新型コロナを『武漢ウイルス』/WHO方針は“地名を用いず”」『しんぶん赤旗』日本共産党中央委員会、2020年3月12日。
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- ^ 孟健軍、関志雄 (2020年3月27日). “『内憂外患』に直面する中国経済―危機はさらなる改革開放の契機になるか?”. 経済産業研究所. 2024年5月16日閲覧。
- ^ 古森義久「バイデン大統領『中国ウイルス』呼称禁止」『Japan In-depth』安倍宏行、2021年2月1日。オリジナルの2023年3月21日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「『中国ウイルスではなく中共ウイルス』イタリア人専門家が呼び掛け」『大紀元時報』エポック・メディア・グループ、2020年4月3日。オリジナルの2021年9月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「コロナ」『デジタル大辞泉』 。コトバンクより2024年6月26日閲覧。
- ^ “corona”. Merriam-Webster Dictionary. Merriam-Webster. 2024年6月26日閲覧。
- ^ 「【インタビュー】(株)コロナ(新潟県三条市)代表取締役社長 小林一芳氏「励ましの手紙全国から」」『にいがた経済新聞』にいがた経済新聞社、2020年10月9日。2024年6月26日閲覧。
- ^ “名前は「コロナ」 いじめ被害の少年にトム・ハンクスさんが…”. NHK NEWS WEB. 日本放送協会 (2020年4月24日). 2024年6月26日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- “WHO issues best practices for naming new human infectious diseases” (英語). 世界保健機関 (2015年5月8日). 2022年6月30日閲覧。