正兼菊太
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正兼菊太(まさかね きくた、1902年頃 - 没年不明)は、ソ連で活動した日本人の共産主義者であり、ソ連の実情を見て転向した一人とされる[1]。
官憲側による熊谷大信の取り調べ資料によれば正兼菊太は二等機関士出身であり、1929年に樺太からソ連へ入り、軍需工場および浦潮日本革命者団に所属して赤化工作を行っていたとされる[2]。また各種資料をウラジオストクの領事館の書記生に提供していたことがゲーペーウーに見つかり、ゲーペーウーの監視が厳しくなったため1933年12月に満州国へと逃げようとするもラズドリノエ駅で逮捕され、1934年9月14日に海軍軍法会議で10年間の強制労働の刑を言い渡されたとされる[2]。
一方、本人の談話によれば1933年5月21日にスパイ容疑で懲役所に移される[3]も、その後、追放命令を受けて日本に帰ってきたとされる[4]。また、ソ連滞在中にウクライナに行き、ホロドモールを目撃したとも語っている[5]。
1944年には、北京において未來和平宗教會(旧京師普濟佛教會)所属の彌勒會總會の顧問を務めたとされる[6]。
著書
[編集]出典
[編集]- ^ 加藤哲郎『国民国家のエルゴロジー : 「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ (これからの世界史 ; 9)』 p.110 平凡社 1994年11月 ISBN 978-4582495294
- ^ a b 「「1.一般/8 昭和9年10月3日から昭和9年11月30日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02030943700、共産党宣伝関係雑件/対日宣伝関係 第八巻(A.3.4.0.2-4_008)(外務省外交史料館)」 アジア歴史資料センター Ref.B02030943700 p.28, p.32
- ^ 『ロシヤ潜行六ケ年』 p.65 思想国防編輯所 1936年 [1]
- ^ 『ロシヤ潜行六ケ年』 p.68 思想国防編輯所 1936年 [2]
- ^ 岡部芳彦「日本人の目から見たホロドモール」『Kobe Gakuin University Working Paper Series』No.28、2020年 。
- ^ 破壞、高壓與反抗──淪陷時期北京文化界面面觀 中國共產黨新聞網