歌橋憲一
歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年(明治22年)5月1日 - 1984年(昭和59年)10月10日)は、日本の実業家[1][2]。ニチバンの創業者として知られている[1][3]。
経歴・人物
[編集]歌橋又三郎(洗礼名:アレクサンドル)の子として東京に生まれる[2]。東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)卒業後[2]、1910年(明治43年)父が開店した「薬局歌橋輔仁堂」を後継者として経営する[2]。後に独立し、1918年(大正8年)にニチバンの前身である「歌橋製薬所」を設立した[1][2]。
製薬所に勤務中、輸入品であったゴム型の絆創膏について学ぶ[2]。これまで負傷した際に用いた包帯に比べ粘着力が大きくなり[2]、父が完成させたチェコ出身のF・J・ピックの製造法を用いた独自のゴム型絆創膏の発明、研究に携わった[1][2]。歌橋が研究した成果は反響を及んだが[2]、気温変動によりゴムが変質するといった問題が起こった[2]。これによって経営難に陥った[2]。しかし、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災による負傷者のために、大日本帝国陸軍が絆創膏を用いた事により、経営が回復した[2]。後にキャレンダーを用いた絆創膏も販売し始める[2]。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に24社を経営統合し[2]、社名を「日絆工業株式会社」を社名変更し同社の社長となる[2][3]。戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの要請により[2]、セロハンテープの製造を始め[1][2]、後に「セロテープ」という名の登録商標で販売し始めた[2][3]。1961年(昭和36年)には「ニチバン株式会社」に再変更し[1][2]、ボールペン等の文房具におけるに匹敵する売り上げを記録した[2]。没後は多磨霊園に葬られた[2]。
栄典
[編集]家族
[編集]- 歌橋又三郎(1863年 - 1937年6月24日) - 実父[4]。
- 歌橋しま - 実母[4]。
- 歌橋はな - 妻[4]。
- 歌橋一典(1915年11月23日 - 2010年9月1日)- 長男[4]、ニチバン社長[2]。代表取締役、副社長、会長、顧問等を歴任。墓所は父と同じく青山霊園[2]。
- 歌橋八重子 - 長男の妻。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 歌橋憲一 - ぷららブログ