コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

橘永名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橘永名
時代 平安時代初期 - 中期
生誕 宝亀11年(780年
死没 貞観8年5月10日866年6月25日
官位 従三位神祇伯
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘入居
兄弟 永継永名逸勢御井子、田村子
氏子
テンプレートを表示

橘 永名(たちばな の ながな)は、平安時代初期から前期にかけての公卿右中弁橘入居の四男。官位従三位神祇伯

経歴

[編集]

但馬掾春宮少進を経て、天長2年(825年従五位下大蔵少輔次いで民部少輔に任ぜられる。翌天長3年(826年)春宮大進兼丹波権介に任ぜられ、再び皇太子・正良親王(のち仁明天皇)に仕える。のち、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年)3月の仁明天皇の即位に伴い正五位下、同年11月従四位下淳和朝末から仁明朝初頭にかけて急速に昇進した。

仁明朝では、右衛門権佐刑部大輔内蔵頭播磨守右兵衛督を歴任し、承和8年(841年)従四位上に叙せられる。承和9年(842年)に承和の変が発生した際には右兵衛督の官職にあったが、弟・逸勢謀反の疑いを受けたため、当時武官の官職を帯びていた一族の時枝右衛門少尉)・三冬(右馬大允)と共に、自ら武器を解いて朝廷に提出する[1]。結局、永名は連座して解官の上で京外に追放される。

承和12年(845年)入京を許され、のち弾正大弼・神祇伯を経て、仁明朝末の嘉祥2年(849年正四位下に叙せられる。当時としては長寿を保ち、清和朝の貞観2年(860年)には81歳にして従三位に叙せられ公卿に列した。

貞観8年(866年)5月10日薨去。享年87。最終官位は散位従三位。

官歴

[編集]

六国史』による。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『続日本後紀』承和9年7月20日条
  2. ^ 『日本三代実録』貞観8年5月10日

参考文献

[編集]