横瀬国繁
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時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 長享2年2月15日(1488年4月6日)? |
別名 | 雅楽助、新六郎(通称) |
戒名 | 宗悦 |
墓所 | 群馬県太田市金山町の金龍寺 |
官位 | 信濃守 |
主君 | 岩松家純 |
氏族 | 横瀬氏 |
父母 | 横瀬貞国 |
子 | 成繁 |
横瀬 国繁(よこせ くにしげ)は、室町時代後期の武将。横瀬氏4代当主。岩松氏の重臣で筆頭家老。
生涯
[編集]横瀬貞国の子として誕生。
享徳3年(1455年)からの享徳の乱の際、主君・岩松家純と共に上杉氏に付いて関東に下向したが、康正元年(1455年)に父・貞国が戦死したため後を継いだ。長禄2年(1458年)に堀越公方・足利政知の執事渋川義鏡と協力して初代古河公方・足利成氏方の家純の従弟・岩松持国の帰順交渉を担当、8月に持国は上杉方に寝返った。しかし、持国は寛正2年(1461年)に再度成氏の方へ戻ろうとした為に家純に謀殺された。
文明元年(1469年)、家純が新田荘に金山城を築城した際の儀式指南役を務めた。文明3年(1471年)の下野国攻めにも参戦している。文明9年(1477年)に家純が子・明純を勘当、国繁が岩松氏執事に就任した。その後、明純の子・尚純と家純を和解させ、岩松氏の後継者に迎え入れた。
長享2年(1488年)に死去したと言われているが、その後も存命し、明応3年(1494年)に隠居したと言う説もある。また、『松陰私語』によれば、明応4年(1495年)に岩松尚純が国繁の子・成繁と争った時にはまだ健在で、その翌年に完成した『新撰菟玖波集』には小野国繁[注釈 1]は「故人衆」として記されているため、この1年間に死去したとする説もある[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 鶴崎裕雄「上野国国人領主岩松尚純の連歌とその資料」(初出:『帝塚山学院短期大学研究年報』28号(1980年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一五巻 上野岩松氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-164-6)