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横山青娥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横山信寿から転送)
横山 青娥
(よこやま せいが)
誕生 横山 信寿
(よこやま のぶじゅ)
1901年12月25日
日本の旗 日本高知県安芸郡安芸町(現・安芸市
死没 (1981-12-20) 1981年12月20日(79歳没)
日本の旗 日本
職業 詩人童謡作家・国文学者
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学博士
最終学歴 早稲田大学文学部国文科卒
ジャンル ・童謡・国文学研究
ウィキポータル 文学
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横山 青娥(よこやま せいが、1901年明治34年)12月25日 - 1981年昭和56年)12月20日)は、日本詩人国文学者

経歴

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高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。1927年(昭和2年)に早稲田大学文学部国文科卒業。

詩人として

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1921年大正10年)、西條八十の門下に入る[1][2]。『黄金の灯台』『蒼空に泳ぐ』『海南風』等の詩集により、海洋詩人と呼ばれた[1]

1924年(大正13年)1月、門下生と共に詩誌『棕櫚の葉』を創刊[2][3]。『棕櫚の葉』は1925年(大正14年)12月に廃刊となるが、渡仏していた八十の帰国と共に1926年(大正15年)5月、全国詩誌『愛誦』が創刊されるとこれに参加、1934年(昭和9年)の廃刊まで編集主宰を務めた[1][2][3][4]。『愛誦』廃刊後は1934年(昭和9年)4月より全国詩誌『昭和詩人』を主宰した[2][4]

童謡作家として

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1926年(昭和元年)には童謡詩人会に入会。雑誌『乳樹』『コドモノクニ』等に童謡を発表し、また自身の著作としても童謡集『栴檀の花』、『日本童謡十講』等を記した[1][2]

国文学者として

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1945年(昭和20年)に高知へ帰郷したが、1951年(昭和26年)再び上京して本郷学園の教員となり、のちに昭和女子大学教授となる[1]1961年(昭和36年)文学博士[1]

主な著作

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詩集

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童謡

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評論等

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  • 『詩人一茶』1926年(大正15年)、新生堂
  • 『新らしい詩の作り方』1931年(昭和6年)、交蘭社
  • 『作詩鑑賞詩法の研究と推敲』1936年(昭和11年)、學藝社
  • 『日本名詩選釈』1936年(昭和11年)、學藝社

国文学研究

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  • 「日本押韻学綱要」国文学研究. 9、早稲田大学国文学会、1937年(昭和12年)11月
  • 『日本詩歌の形態学的研究』1959年(昭和34年)、武蔵野書院
  • 「和歌日本の系図」1969年(昭和44年)、塔影書房

出典

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  1. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ 編『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。ISBN 4816918531 インターネット上ではコトバンクで閲覧可能。
  2. ^ a b c d e 日本児童文学学会 編『児童文学事典』東京書籍、1988年、793頁。ISBN 4487731917https://alc.chiba-u.jp/cl/index.html#%E3%82%88 
  3. ^ a b akaneのお便り通信 460. もう一人のみすゞを追って-28(「愛誦」時代-2)
  4. ^ a b 大塚徹大塚あき八木好美 編『大塚徹・あき詩集』培養社、1977年、253頁。