権現堂城
権現堂城(ごんげんどうじょう)は、福島県双葉郡浪江町(陸奥国標葉郡)にあった日本の城。
権現堂城 (福島県) | |
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遠景 | |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 標葉清隆 |
築城年 | 文安年間(1444年-1449年) |
主な城主 | 標葉氏、相馬氏 |
廃城年 | 慶長年間? |
遺構 | 土塁、空堀、 |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯37度29分55.246秒 東経140度59分47.767秒 / 北緯37.49867944度 東経140.99660194度座標: 北緯37度29分55.246秒 東経140度59分47.767秒 / 北緯37.49867944度 東経140.99660194度 |
地図 |
中世に標葉郡(現双葉郡北部)を支配した標葉氏が築き、標葉氏の滅亡後は相馬氏の支城となった。
立地・構造
[編集]標高約23メートルの東へ舌状に突き出した丘上の台地を利用して築かれ、南を請戸川が流れ、西側を除く三方は急な崖となっている。台地を空堀2本で分断し、空堀に挟まれた50メートル四方の平場が主郭部であると考えられている。西側の空堀は幅12メートル、深さ約10メートル、さらに堀に面して2メートルの土塁が築かれ守りを固める。東端部の外郭は30メートル×40メートルの平地で、雷神社が立つ[1]。
毎年旧暦1月8日に無火災を祈って催される「裸参り」(浪江町指定無形民俗文化財)は浪江神社を出発し、雷神社を参拝して折り返す[2]。
歴史
[編集]標葉清隆は嘉吉年間(1441年-1444年)に居城を請戸城から本城館へと移したが、本城館は平城であり防御に不向きであったため、数年後の文安年間(1444年-1449年)には700mほど北に位置する丘陵部に権現堂城を築き本拠とした。城の名は、標葉氏が守護神として「出羽権現」をまつったことに由来する[3]。 標葉氏領の南隣の楢葉氏が文明6年(1474年)に岩城氏によって滅ぼされると、標葉氏はいよいよ北の相馬氏、南の岩城氏の両勢力の圧に晒されるようになり、明応元年(1492年)に相馬氏による攻撃を受ける。支城の攻略など、戦いは半年以上に及んだが、相馬軍は権現堂城への総攻撃直前、相馬領主相馬高胤が陣中に没したため撤退した。しかし、相馬氏の家督を継いだ相馬盛胤は、明応元年(1492年)12月、再び権現堂城攻略の兵を挙げる。標葉隆直、標葉隆豊ら一族が相馬軍に内応したこともあり、権現堂城は落城。城主標葉清隆、嫡子隆成は自刃し標葉宗家は滅亡した。
相馬氏の支配下では一族の重鎮岡田氏が城代として入城し、戦国末期まで支城として機能した。慶長7年(1602年)、相馬氏が関ヶ原の戦いへの不参加を理由に改易された際、他の支城と合わせて廃されたと考えられる。
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雷神社(外郭)
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主郭・外郭間の空堀
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西側の空堀
交通
[編集]出典
[編集]- ^ 『武者たちの舞台 上巻―ふくしま紀行城と館』福島民報社、2011年、236頁。ISBN 9784939053917。
- ^ [https://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/1/332.html
- ^ 『日本城郭大系3』新人物往来社、1981年、441-442頁。ISBN 4-404-01048-6。