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業良親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
業良親王
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 不詳[1]
薨去 貞観10年正月11日868年2月8日
官位 無品無官
父母 父:嵯峨天皇、母:高津内親王
兄弟 仁子内親王業良親王業子内親王有智子内親王仁明天皇正子内親王源信、源貞姫、源潔姫源弘、源全姫、源常源寛源明、源善姫、源定、基良親王、基子内親王、秀良親王、秀子内親王、忠良親王、俊子内親王、芳子内親王繁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王源生源安源融源鎮源啓源勤源清源勝
寧内王正内王
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業良親王(なりよししんのう)は、嵯峨天皇の第二皇子[2][3]

経歴

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高津内親王は、大同4年(809年嵯峨天皇即位とともにに立てられるが、間を置かずして廃される。高津内親王が妃を廃されてまもなくと考えられる弘仁6年(815年)には、業良親王に備前国津高郡の荒廃田19町が下賜されている。

親王も生涯を通して叙品されることなく、無品のまま貞観10年(868年)1月11日に薨去した。飲食も普段通りで、とりたてて病気にもかかっていなかったが、急に没したという[2]。薨去に際して清和天皇は3日間の廃朝を行った。

人物

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精神的に不安定で、物事を識別判断する能力を備えていなかった[2]

系譜

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脚注

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  1. ^ 嵯峨天皇の即位直後の高岳親王の立太子と薬子の変後の大伴親王の立太子の事実から、嵯峨天皇の即位時に誕生していなかったか、誕生していたとしても幼少で皇太子の候補になり得なかったとする見方がある(春名宏昭 『平城天皇〈人物叢書〉』吉川弘文館、2009年、93-94頁。)。
  2. ^ a b c 日本三代実録』貞観10年(868年正月11日条
  3. ^ 仁明天皇長男とするための作為も考えられ、実際のところは不詳。
  4. ^ 日本三代実録元慶4年(880年)4月16日条