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楠浦昌勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
楠浦昌勝
時代 戦国時代
別名 通称:清三[1]
官位 刑部少輔
主君 武田信昌信縄信虎
氏族 楠浦氏
虎常(若狭守)?[1]
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楠浦 昌勝(くすほ まさかつ)は、戦国時代武士甲斐武田氏の家臣。武田信縄信虎の側近[1]

略歴

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昌勝は武田信昌・信縄期から信虎(信直)期にかけての有力側近で、楠浦氏は信虎の側室を輩出している。「楠浦」は甲斐南部の河内領に位置している。戦国期に同地は穴山氏が支配しており、楠浦氏と当地との関わりは無くなっていたと考えられている[2]

初見文書は「向嶽寺文書」[3]で、永正元年(1504年)2月27日で、昌勝は林都寺が法度を破った件に関して向嶽庵甲州市塩山上於曽の向嶽寺)の衆議に任せる旨を、当主の信縄から信昌に対して披露することを命じられており、昌勝はこの時点で「清三」を名乗っている[1]。この訴訟に関して昌勝は書状を向嶽庵大衆に転送しているが、決定が遅れたことをに対して謝意を示しており、武田氏が寺院の訴訟に関して気を遣っていることが指摘される[1]

「幸福大夫文書」によれば、同年閏3月11日には、伊勢御師幸福大夫に対して返書が遅れたことに対して謝意を示している[1]。幸福大夫には神馬を送り、神宮での祈願を依頼している[4]。「幸福大夫文書」によれば、年未詳10月12日・年未詳11月11日にも幸福大夫に対し返書を出している[1]

永正4年(1507年)2月14日には武田氏の当主・信縄が死去し、信直(永正18年に改名し「信虎」)が家督を継承すると昌勝は信虎の側近となる[1]。昌勝は曽根昌長と並ぶ信縄・信虎の有力で[5]、対室町幕府取次を務めていたと考えられている。「幸福大夫文書」によれば、年未詳5月18日には信直が幸福大夫に宛てた返書に副状を付している[1]

菊隠録』によれば、永正7年(1510年)0月16日には永昌院山梨市矢坪)住職の菊隠瑞譚(きくおん ずいたん)が、武田氏・昌勝が永昌院を外護することに対して讃えており、同時に所領還付を依頼した書状を送られている[1]。昌勝はこの時点でもまだ「清三」を名乗っている[1]

昌勝は主に外交面での働きが顕著で、『秋田藩家蔵文書』[6]によれば、年不詳3月19日には近江国へ亡命していた将軍・足利義澄から信虎に対する上洛要請の御内書副状に対する返状を、曽根昌長と連名で発給している[1]。足利義澄は永正8年(1511年)8月に死去していることからこの文書は同年に推定され、昌勝はこの時点で「形部少輔」を名乗っている[1]。その後の動向は不明[1]

虎常(若狭守)は子と推測されているが、次代の晴信(信玄)期には楠浦氏の活動は見られなくなり、天文10年(1541年)の信虎追放を機に没落したと考えられている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 丸島 2015, p. 283.
  2. ^ 『武田信玄大辞典』、p.123
  3. ^ 山梨県史』資料編4、385・386号
  4. ^ 『山資』5下、2456号
  5. ^ 丸島 2015, p. 284.
  6. ^ 戦国遺文武田氏編』 - 3811・3821号

出典

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  • 丸島和洋 著「楠浦昌勝」、柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年。 
  • 丸島和洋 著「楠浦昌勝」、柴辻俊六; 平山優; 黒田基樹 ほか 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。