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楊本範満

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
楊本範満
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 文明3年閏8月9日1471年9月23日
別名 範満入道
幕府 室町幕府
氏族 楊本氏
父母 祖父:楊本範兼
源次
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楊本 範満(やなぎもと/やないもと のりみつ)は、室町時代後期の武将

概要

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親長卿記文明3年(1471年)閏8月9日条によると、応仁の乱の最中、畠山義就派の越智氏と手を組んでいたため、東軍方の十市遠清に居城の楊本城攻められ、子の源次とともに討ち取られたという。『大乗院寺社雑事記』によると、範満は堀に落下して死去し、源次は切腹して果てたとされる[1]

実隆公記』文明7年(1475年)9月20日条によると、後継者の楊本某が筒井氏順尊か)・片岡氏箸尾氏為国か)の仲介によって十市遠清と和睦したとされる[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 東京大学史料編纂所データーベース「大日本史料総合データーベース[1]
  2. ^ 東京大学史料編纂所データーベース「大日本史料総合データーベース[2]