森治樹
表示
もり はるき 森 治樹 | |
---|---|
生誕 |
1900年5月3日 日本 鳥取県西伯郡夜見村上谷 (現在の米子市夜見町) |
死没 | 1994年11月4日(94歳没) |
出身校 |
神戸高商 (現在の神戸大学) |
職業 | 実業家 |
森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 - 平成6年(1994年)11月4日)は日本の実業家。元資生堂社長。幼名治。
略年譜
[編集]- - 財務部長。
- - 取締役。
- 昭和22年(1947年)
- - 常務取締役。
- 昭和36年(1961年)
- - 専務取締役。
- 昭和37年(1962年)
- - 大阪資生堂取締役兼務。
- 昭和39年(1964年)
- - 取締役社長。
- 昭和42年(1967年)
- - 相談役。
- 11月4日 - 死去。
家系
[編集]- 夜見村(現在の米子市夜見町)は境村、余子神社神官、森守祥の次男六郎右衛門守連らが、延宝7年(1679年)官許を得て開発した[1]。境村の旧記では西小路、森家は境旧家29の1つとされ、古い家系を誇っていた。その家系図によれば人皇7代孝霊天皇の皇子正武彦命から45代餘見島宿弥守明の折、源義親との婚姻の伝承があり、それより9代守侶の時に後醍醐天皇より源姓と餘戸家の家号を賜ったとある。その頃から明応9年(1500年)の棟札に至るまで“宮脇姓”で森家の家系図で森姓と明記されているのは、森次右衛門守祥の父森豊前守守益の時で、その代か、あるいは一つ先代の時頃に、森姓に移ったと推定されている。宮脇、源、森の姓もその時代時代に宮廷より賜ったもので、慶長年間(1596年から1615年)に屡々吉田殿に参代しており下って、天明元年(1781年)には従五位に叙せられたとも伝えられている。何故森姓に移ったかは明らかでない[2]。
参考文献
[編集]- 森納 『夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 1975年 196-197頁
脚注
[編集]外部リンク
[編集]