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森治樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もり はるき

森 治樹
生誕 1900年5月3日
日本の旗 日本
鳥取県西伯郡夜見村上谷
(現在の米子市夜見町
死没 (1994-11-04) 1994年11月4日(94歳没)
出身校 神戸高商
(現在の神戸大学
職業 実業家
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森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年5月3日 - 平成6年(1994年11月4日)は日本実業家。元資生堂社長幼名治。

略年譜

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5月3日 - 鳥取県西伯郡夜見村上谷(現在の米子市夜見町)に森作蔵の長男として生まれた。
- 神戸高商(現在の神戸大学)卒業、資生堂大阪支店に入社。
- 財務部長。
- 取締役
- 常務取締役
- 専務取締役
- 大阪資生堂取締役兼務。
- 取締役社長。
- 相談役
11月4日 - 死去。

家系

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夜見村(現在の米子市夜見町)は境村、余子神社神官、森守祥の次男六郎右衛門守連らが、延宝7年(1679年)官許を得て開発した[1]。境村の旧記では西小路、森家は境旧家29の1つとされ、古い家系を誇っていた。その家系図によれば人皇7代孝霊天皇皇子正武彦命から45代餘見島宿弥守明の折、源義親との婚姻の伝承があり、それより9代守侶の時に後醍醐天皇より源姓と餘戸家の家号を賜ったとある。その頃から明応9年(1500年)の棟札に至るまで“宮脇姓”で森家の家系図で森姓と明記されているのは、森次右衛門守祥の父森豊前守守益の時で、その代か、あるいは一つ先代の時頃に、森姓に移ったと推定されている。宮脇、源、森の姓もその時代時代に宮廷より賜ったもので、慶長年間(1596年から1615年)に屡々吉田殿に参代しており下って、天明元年(1781年)には従五位に叙せられたとも伝えられている。何故森姓に移ったかは明らかでない[2]
森治樹木綿肥料、海産物の問屋を営み、持ち舟もあり、広く交易していたといわれる“問屋系森氏”の出身である。 

参考文献

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  • 森納夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 1975年 196-197頁

脚注

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  1. ^ 森治部守祥と六郎右衛門守連との関係について森治部の次男とするものは夜見神社記、大森家文書、夜見村荒神記、余子神社由緒等あるが、一方その弟とするものは、境港沿革史、夜見要録、弓浜民談抄等がある(『夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 3頁)
  2. ^ (『夜見村誌改訂 弓浜半島と夜見村』 121頁)

外部リンク

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