森川竹窓
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森川 竹窓(もりかわ ちくそう、宝暦13年(1763年) – 文政13年11月2日(1830年12月16日))は、江戸時代中期後期の日本の書家・画家・篆刻家である。
名は世黄もしくは修亮、字を離吉もしくは子敬、 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊、室号に柏堂がある。通称曹吾、大和の人。
略伝
[編集]大和国高市郡鳥屋村の生まれ。17歳で江戸に出て佐竹家に仕えたが、しばらくのちに浪華に移る。常日頃から古法帖の臨模を精励し、書名がすこぶる高まった。また傍らで篆刻も嗜み、画も巧みでとりわけ墨竹図に優れていた。文化4年(1804年)には浦上玉堂が竹窓の家に逗留している。また書画骨董の収蔵にも富み、松平定信が『集古十種』を編纂したとき竹窓も協力を要請された。備後町壱丁目、高麗橋丼池に私塾を開き、書を教えた。上田秋成と親交が深い。
京都に没する。享年68。墓所は木村巽斎と同じ大応寺(大阪市天王寺区餌差町)にある。
親族
[編集]森川印刷所社長森川桑三郎の養父・桑三郎は竹窓の曽孫である[1]。
著作
[編集]- 『集古浪華帖』
- 『集古仮名遣』
- 『雨傘余情』
- 『草行書字句選』
- 『古香斉筆記』龍谷大学図書館蔵
- 『欵藪』
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 第13版 下』モ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月28日閲覧。