森川暁水
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森川 暁水(もりかわ ぎょうすい、1901年(明治34年)9月27日 - 1976年(昭和51年)6月15日)は、大正時代から昭和時代後期にかけての俳人。本名は森川正雄。
「ホトトギス」には珍しい、貧のなかに哀歓を籠めた作風で、高浜虚子より「昭和の一茶」(『黴』序文)と評された。いわゆる境涯俳句に先だつ作家だった。
略歴
[編集]大阪市西区裏新町の生れ。尋常小学校卒業と同時に表具店に徒弟奉公し、のち独立自営する。戦争末期には古書店を経営していた。1919年(大正8年)頃より作句し、山本梅史に師事して「泉」の編集に携わり同誌終刊まで尽力する。また高浜虚子にも師事し、1932年(昭和7年)「ホトトギス」同人となる。他に「山茶花」選者も務め、「火林」・「すずしろ」・「風土」・「雲海」などを主宰したことがある。句集に『黴』(1937年(昭和12年)黴刊行会)、『淀』(1940年(昭和15年)三省堂)、『澪』(澪刊行会)、『砌』(1970年(昭和45年)大阪冬筍会)などがある[1]。墓所は大東市三箇墓地。戒名は「石切院澪月暁水居士」。
評価
[編集]中田剛は「その句は市井人の感情を汲んで世評高いが、むしろ「息しづかに葱汁吸うて生きてあり」(『黴』)、「餅厚く切つて遠のく死ありけり」(『砌』)の孤絶に本質を見る。」[2]とする。
松崎豊に「悼 森川暁水--境涯の作家森川暁水」(「俳句」1976年9月号p216、角川書店)がある。
『増補現代俳句大系』第2巻(角川書店)1981年に『黴』が収録されている。
作品
[編集]- 日向水かぶりて其日暮しかな
- 貸ぶとん引つぱりあうて寝たりけり
- どぶろくにゑうて身を投ぐ大地あり
- 息しづかに葱汁吸うて生きてあり
- 餅厚く切つて遠のく死ありけり
- はかり炭買ひゐるところ見られけり
- われのみに見ゆ昼星や極暑来
- 悪ろき世のむきみの田螺黒かりき
- 一晩にかほのかはりぬ暑気中り
- 貧乏のもらひぐすりや水中り
- 飢びとに麦いらいらと黄なりけり
- 苦潮にうつそみ濡れて泳ぐなり
- 月のものありてあはれや風邪の妻
- 煮凝や親の代よりふしあはせ
- 秋江に沿ひゆき蔵書売らんとす
- 笑うてはをられずなりぬ梅雨の漏
- 地のあてに山わだかまり凍死せる
- 年玉のかざしの鶴の挿せば舞ふ
- 膝もとにいとどの跳ねる夜食かな
- 唄はねば夜なべさびしや菜種梅雨
- 夜なべしにとんとんあがる二階かな
- まうからぬ夜なべ細工やちちろ虫
- 夜濯にありあふものをまとひけり
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『20世紀日本人名事典』
- 『現代俳句大事典』(三省堂)他