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山本梅史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本 梅史(やまもと ばいし、1886年明治19年)12月12日 - 1938年昭和13年)7月24日)は、明治時代から昭和時代前期にかけての俳人。本名は徳太郎(とくたろう)、大阪府堺市櫛屋町東の生れ。梅沢墨水安藤橡面坊高浜虚子に師事[1]

略歴

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幼時より利発で温順、神童の名が高かった。7歳のときに父と死別し、以後、祖父と母の手で育てられた。堺市熊野尋常小学校を卒業後、堺高等学校に入学する。14歳のころから茶道俳諧を習う(雅号:雪窓庵梅史)[2]

また「文庫」に新体詩を、「新星」に短歌を投稿する。地元新聞の記者を経て、1911年(明治44年)に「堺日報」を創刊する。1916年大正5年)紙上に「白鳥俳壇」という俳句欄を設け、その選句にあたる。1917年(大正6年)、堺に高浜虚子を迎えて歓迎句会を開き、関西ホトトギス派の結集の機運を作る。 以後「同人」や「山茶花」に参加し、1926年(大正15年)に「ホトトギス (雑誌)」同人となる。同年野村泊月の推薦により「九年母」の選者を引き継いだがのちに辞し、1928年(昭和3年)「いづみ」を創刊主宰した。

句集に『梅史句集』(素人社書屋)。没後、全句集として『梅史句集』私家版(1940年(昭和15年)9月)が刊行された。虚子は「梅史もまた作家であった」と序文を寄せている。

代表句に「ひとときの時雨先立つ御幸かな」などがあり、堺市の開口神社には「風鈴や見馴れたれども淡路島」の句碑が立つ。

俳句以外には、『堺音頭』(作曲:佐藤吉吾郎・編曲:北木正義・唄:楠木繁夫小唄勝太郎)や『新堺音頭』(作曲:細田義勝、唄:花村菊江山中ひろし)の作詞を手がけた[3]

弟子

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参考文献

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  • 『美術人名辞典』
  • 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
  • 『現代俳句大事典』(三省堂

脚注

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外部リンク

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