梶川重太郎
表示
梶川 重太郎(かじかわ じゅうたろう、1864年(元治元年)- 1902年(明治35年)7月2日)は、大日本帝国陸軍軍人[1]。
経歴
[編集]陸奥の三戸(現・青森県)の生まれ[1]。1885年(明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業[2]。1896年(明治29年)、陸軍大学校(第7期生9名のうち首席に次いで二番目の成績・優等で)卒業後、歩兵中尉に叙せられた[1]。後に陸軍大尉に昇格し[1]、日清戦争に出征した[1]。この業績により参謀本部勤務に就任し[1]、イギリスに留学する[1]。1902年(明治35年)北京公使館付武官として清朝に派遣されたが、同年7月2日に自殺した[1]。
肖像写真
[編集]写真家で日本の近現代写真研究家である谷口雅彦氏所有の写真師・上野彦馬撮影とされる鶏卵紙プリントが存在している。裏書によると、「恭呈 伊東大人 明治三十年十一月二十四日 長崎に於テ 梶川重太郎」とある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山崎正男 編『陸軍士官学校:保存版』(第8)秋元書房、1990年。