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桂川てや

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桂川 てや(かつらがわ てや、文政12年〈1829年〉 - 天保15年5月10日1844年6月25日〉)は、江戸幕府11代将軍徳川家斉御台所であった広大院御中﨟。「蘭学の家」として知られる桂川家の出身。書籍によってはこやと記されることもある。

生涯

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桂川家6代目当主である奥医師桂川甫賢の長女[1]

天保11年(1840年)、12歳で女中見習いとして大奥に入り、次いで呉服の間(裁縫方)となる[1]。大奥入りは大奥御年寄花町の強い勧めであり、花町の部屋子となっている。

天保12年(1841年)には御台所・広大院付きの御中﨟となる[1]。大奥入りから1年余りでの出世は異例のものであった[1]

天保15年5月10日1844年6月25日[1]江戸城本丸の大奥長局から出火した火事は、奥女中数百人が焼死する大惨事となった。この際に花町が取り残され、てやは花町を救出するために火中に引き返して焼死した[2]。享年16。

姪の今泉みねが聞き伝えた話によれば、先に助け出された広大院の「花町は無事か、見てまいれ」との命を受け、てやは炎上中の局に戻ったが花町は見つからず、さりとて主人に「お見えになりませぬ」と復命するわけにもいかず、手燭を持ったまま火中に入っていったという[3]

その死に様から後に「大奥女中の鑑」と讃えられ、このことは天璋院にも伝わったという。将軍家からは異例ながら「恵光院殿」という高位の戒名を送られた[4]

この火災では、てやに仕える侍女2人もまた焼死している[5]。てやと侍女2人は、芝二本榎上行寺の桂川家墓地に葬られ、大小3つの墓石は今泉みねによる『名ごりの夢』口述時点(1930年代)にも存在していた[5]。上行寺が第二次世界大戦後神奈川県伊勢原市に移転したのに伴い、てやの墓地も同所に移転している[4]

家族

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兄に桂川甫周(7代目)、弟に桂川甫策(8代目)、藤沢次謙(幕府陸軍副総裁)がいる。

姪(甫周の娘)に、『名ごりの夢』を口述した今泉みねがいる。みねが生まれたのは安政2年(1855年)であるが、てやの話を周囲からよく聴かされており、てやを「御殿のおばさま」と呼びならわしていた。『名ごりの夢』には、生前のてやの様子や、てやの死について聞き伝えられたことが語られ、また甫賢夫妻が当時を書き残した「堕涙日記」の一部が引用されている。かねてより長患いをしていた甫賢は、てやの死により力を落とし、半年後に亡くなった[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e 「関係人物略伝」『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』(平凡社東洋文庫)p.252
  2. ^ 桂川てや”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月3日閲覧。
  3. ^ 「御殿のおばさま」『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』(平凡社東洋文庫)pp.66-67
  4. ^ a b 大奥の秘密 ~“出世の花道”を生きた女たち~”. 歴史秘話ヒストリア. 日本放送協会. 2014年4月3日閲覧。
  5. ^ a b 「御殿のおばさま」『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』(平凡社東洋文庫)pp.67-68
  6. ^ 「御殿のおばさま」『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』(平凡社東洋文庫)p.68

桂川てや が登場する作品

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  • 穂高健一『妻女たちの幕末』―大奥の最高権力者 姉小路の実像―(南々社、2023年)

参考文献

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外部リンク

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