根井久吾
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根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日[1] - 1941年〈昭和16年〉6月5日[2])は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。
経歴・人物
[編集]宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身[3]。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった[4]。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[3]。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した[3][4]。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる[5][4]。さらに、埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、徳島県立徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)、静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)の各校にて校長兼教諭を務め、台湾総督府台北第二師範学校(現・国立台北教育大学)の校長に就任した[5]。その間、1921年(大正10年)に中華民国に出張した[5]。
1935年(昭和10年)10月に退官し、1937年(昭和12年)推挙され、宮崎市長に就任した[5]。市長退任後の1941年(昭和16年)6月、急性肺炎により宮崎市松橋町の自宅で死去した[2]。
脚注
[編集]- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、430頁。
- ^ a b 都市研究会 1941, 53頁.
- ^ a b c 大日本現代教育家銘鑒 第2輯 1915, p. 490.
- ^ a b c 人事興信録 1939.
- ^ a b c d 帝国自治協会 1938, 110頁.
参考文献
[編集]- 斎木織三郎編『大日本現代教育家銘鑒 第2輯』教育実成会、1915年。
- 帝国自治協会 著『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。
- 都市研究会「前宮崎市長根井久吾氏逝去」『都市公論』第24巻第7号、1941年、53頁。