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栗生顕友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
栗生顕友
時代 南北朝時代
生誕 不明
死没 不明
別名 左衛門[1]
主君 新田義貞
氏族 栗生氏
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栗生 顕友(くりゅう あきとも)は、南北朝時代南朝方の武将。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。

経歴・人物

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栗生氏清和源氏の一族河内源氏足利氏庶流の源姓畠山氏の流れを汲む。

上野出身。義貞の側近として仕えた。建武の新政後の建武3年(1336年)、恒良親王尊良親王を奉じ北国へ向かった義貞に従う。『太平記』によると、越前金ヶ崎城を包囲する北朝方の軍勢を、顕友の進言した策を以て欺き、義貞の金ヶ崎城入城に成功したとされる。

脚注

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  1. ^ 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、p.173(1985)

参考文献

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  • 『埋み火はまた燃える―新田一族銘々伝』(新田純弘著 さきたま出版会 2000年)
  • 太平記』(巻十七 十六騎勢入金崎事)