栄臻
栄臻 | |
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プロフィール | |
出生: | 1891年(清光緒17年) |
死去: |
1960年 中国 北京市 |
出身地: | 清直隷省冀州棗強県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 榮臻 |
簡体字: | 荣臻 |
拼音: | Róng Zhēn |
ラテン字: | Jung Chen |
和名表記: | えい しん |
発音転記: | ロン ジェン |
栄 臻(えい しん)は中華民国の軍人。北京政府・奉天派に属し、後に汪兆銘の南京国民政府に参加した。字は翕生。
事績
[編集]1912年(民国元年)、保定陸軍軍官学校第1期砲兵科に入学した。1914年(民国3年)11月に卒業後、奉天派の李景林率いる部隊に所属している[1]。
1925年(民国14年)7月9日、陸軍少将に任命された[2]。1926年(民国15年)、東北陸軍第1師第43旅旅長に昇進し、張学良配下となった[1]。1927年(民国16年)2月1日、陸軍中将となり[3]、4月1日には仁威将軍位を授与された[4]。また、同年中には第4方面軍第17軍軍長に任命され、翌1928年(民国17年)、東北辺防軍司令部軍事庁庁長となった[1]。
易幟後の1929年(民国18年)3月13日、栄臻は国軍編遣委員会第5編遣区弁事処副主任委員に任ぜられる[5]。1931年(民国20年)、東北辺防軍司令長官公署参謀長となり、満州事変(九・一八事変)の対応において張学良を補佐した[1]。翌1932年8月19日には、国民政府軍事委員会北平分会常務委員となる[6]。1935年(民国24年)、陸軍中将となった[7]。
1943年(民国32年)6月10日、栄臻は張学銘と共に南京国民政府の軍事委員会委員に任ぜられ[8]、8月6日には華北政務委員会華北剿共委員会事務主任を兼任している[9]。秋には、剿共委員会委員長に昇進した。11月、蔣介石の重慶国民政府から、陸軍中将の位を剥奪されている[1]。1944年(民国33年)6月、華北政務委員会特別法庭華北分庭庭長に任命され[1]、1945年(民国34年)2月20日、河北省省長となった[10]。4月、華北政務委員会保定綏靖主任を兼任している[1]。
日本敗北後、栄臻は蔣介石の国民政府に逮捕され、軍事法廷で死刑判決を言い渡された[11]。しかし刑は執行されず、1960年に病死した。
注
[編集]- ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、2329頁。
- ^ 『政府公報』第3330号、1925年(民国14年)7月10日。
- ^ 『政府公報』第3875号、1927年(民国16年)2月2日。
- ^ 『政府公報』第3932号、1927年(民国16年)4月2日。
- ^ 『国民政府公報』第115号、4頁。
- ^ 『国民政府公報』洛字第17号、42頁。
- ^ 『国民政府公報』第1708号、12頁。
- ^ 「栄臻、張学銘両氏軍事委員に」『読売新聞』昭和18年(1943年)6月11日夕刊、1面。
- ^ 「世界の鼓動 華北剿共委員主任」『朝日新聞』昭和18年(1943年)8月6日、2面。
- ^ 「北京、天津両市長等決る」『朝日新聞』昭和20年(1945年)2月21日、1面。
- ^ 余ほか(2006)、1422-1423頁。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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