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栄臻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
栄臻
プロフィール
出生: 1891年光緒17年)
死去: 1960年
中華人民共和国の旗 中国 北京市
出身地: 清の旗 直隷省冀州棗強県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 榮臻
簡体字 荣臻
拼音 Róng Zhēn
ラテン字 Jung Chen
和名表記: えい しん
発音転記: ロン ジェン
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栄 臻(えい しん)は中華民国の軍人。北京政府奉天派に属し、後に汪兆銘南京国民政府に参加した。翕生

事績

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1912年民国元年)、保定陸軍軍官学校第1期砲兵科に入学した。1914年(民国3年)11月に卒業後、奉天派李景林率いる部隊に所属している[1]

1925年(民国14年)7月9日、陸軍少将に任命された[2]1926年(民国15年)、東北陸軍第1師第43旅旅長に昇進し、張学良配下となった[1]1927年(民国16年)2月1日、陸軍中将となり[3]、4月1日には仁威将軍位を授与された[4]。また、同年中には第4方面軍第17軍軍長に任命され、翌1928年(民国17年)、東北辺防軍司令部軍事庁庁長となった[1]

易幟後の1929年(民国18年)3月13日、栄臻は国軍編遣委員会第5編遣区弁事処副主任委員に任ぜられる[5]1931年(民国20年)、東北辺防軍司令長官公署参謀長となり、満州事変(九・一八事変)の対応において張学良を補佐した[1]。翌1932年8月19日には、国民政府軍事委員会北平分会常務委員となる[6]1935年(民国24年)、陸軍中将となった[7]

1943年(民国32年)6月10日、栄臻は張学銘と共に南京国民政府の軍事委員会委員に任ぜられ[8]、8月6日には華北政務委員会華北剿共委員会事務主任を兼任している[9]。秋には、剿共委員会委員長に昇進した。11月、蔣介石重慶国民政府から、陸軍中将の位を剥奪されている[1]1944年(民国33年)6月、華北政務委員会特別法庭華北分庭庭長に任命され[1]1945年(民国34年)2月20日、河北省省長となった[10]。4月、華北政務委員会保定綏靖主任を兼任している[1]

日本敗北後、栄臻は蔣介石の国民政府に逮捕され、軍事法廷で死刑判決を言い渡された[11]。しかし刑は執行されず、1960年に病死した。

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  1. ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、2329頁。
  2. ^ 『政府公報』第3330号、1925年(民国14年)7月10日。
  3. ^ 『政府公報』第3875号、1927年(民国16年)2月2日。
  4. ^ 『政府公報』第3932号、1927年(民国16年)4月2日。
  5. ^ 『国民政府公報』第115号、4頁。
  6. ^ 『国民政府公報』洛字第17号、42頁。
  7. ^ 『国民政府公報』第1708号、12頁。
  8. ^ 「栄臻、張学銘両氏軍事委員に」『読売新聞』昭和18年(1943年)6月11日夕刊、1面。
  9. ^ 「世界の鼓動 華北剿共委員主任」『朝日新聞』昭和18年(1943年)8月6日、2面。
  10. ^ 「北京、天津両市長等決る」『朝日新聞』昭和20年(1945年)2月21日、1面。
  11. ^ 余ほか(2006)、1422-1423頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
杜錫鈞
河北省長
1945年2月 - 8月
次代
(廃止)