柴谷光謹
柴谷 光謹 しばたに みつなり | |
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生年月日 | 1939年1月10日 |
出生地 | 大阪府八尾市 |
没年月日 | 2007年7月6日(68歳没) |
出身校 | 明治大学農学部 |
前職 |
八尾市長 大阪府議会議員 八尾市議会議員 会社員 |
所属政党 | 日本社会党 |
親族 | 長男・匡哉(元大阪府議会議員) |
第5代八尾市長 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1999年(平成11年)5月 - 2007年(平成19年)4月 |
大阪府議会議員 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1983年(昭和58年) - 1999年(平成11年) |
当選回数 | 3 |
在任期間 | 1967年(昭和42年) - 1983年(昭和58年) |
柴谷 光謹(しばたに みつなり、1939年〈昭和14年〉1月10日[1] - 2007年〈平成19年〉7月6日[2])は、日本の政治家。大阪府八尾市長(第5代、2期[3])。大阪府議会議員(4期)、八尾市議会議員(3期)を務めた。
略歴・人物
[編集]大阪府八尾市出身[2]。明治大学農学部卒業。1961年(昭和36年)日本バルカー工業(現バルカー)に勤務[4]。
1967年4月28日の第6回統一地方選挙で日本社会党から立候補。八尾市安中町を拠点に選挙運動を展開し、28歳で八尾市議会議員に初当選した[5]。
以後、市議3期12年を務め[4]、知名度をもとに1983年4月10日の第10回統一地方選挙で大阪府議会議員に鞍替えし初当選。以後、府議4期16年を務めた[4]。
1999年(平成11年)4月25日の第14回統一地方選挙では、八尾市長選挙に出馬し初当選した。
2003年4月27日の第15回統一地方選挙では、市議6期を務め財政再建・同和対策事業終結を訴える日本共産党の野沢倫昭と、同じく元市議で前回に続き立候補した露原正行を相手に[6]、市長に再選を果たした。
2007年4月の第16回統一地方選挙では、三たび立候補した露原正行や元市議ら4人を相手に戦ったが、元府議の田中誠太に敗れた[7]。市長を任期満了で退任し、同年7月6日、肝硬変のため八尾市の病院で死去した。享年68[2]。
なお、公職のほか2005年にNPO法人八尾ベースボールクラブ(社会人野球クラブ)の名誉顧問(後任は長尾淳三東大阪市長)などを務めていた[8]。
また、安中町の地盤を長男の匡哉(まさや)が継ぎ[9]、2011年4月10日の第17回統一地方選挙で民主党から立候補し大阪府議会議員に初当選(八尾市選挙区、1万6,133票[10])し、1期を務めた。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 『新訂 現代政治家人名事典 : 中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年、262頁。
- ^ a b c 柴谷光謹氏死去/前大阪府八尾市長 - 四国新聞2007年(平成19年)7月7日
- ^ Q.歴代市長名を教えて下さい。 | 八尾市 - 八尾市役所
- ^ a b c Untitled - 八尾市 - 1999年(平成11年)10月、八尾市消防団広報「火の見櫓」第3号
- ^ 1967年(昭和42年)5月5日「八尾市時報」(現やお市政だより)第335号
- ^ 全選挙区 対決の構図 - 日本海新聞
- ^ asahi.com: 2007統一地方選 大阪府市長選
- ^ NPO法人八尾ベースボールクラブ 八尾BC小史
- ^ しばたに匡哉プロフィール
- ^ 柴谷匡哉(しばたにまさや)| 大阪府議会議員選挙 2011 八尾市 | 政治山
- ^ よしもとニュースセンター : ジミー大西が田中誠太八尾市長を表敬訪問 - 2014年10月7日
公職 | ||
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先代 西辻豊 |
大阪府八尾市長 1999年 - 2007年 |
次代 田中誠太 |