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柴田徳次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1956年

柴田 徳次郎(しばた とくじろう、旧字体柴田 德次󠄁郞1890年明治23年〉12月20日 - 1973年昭和48年〉1月26日)は、日本保守思想家、教育者経済学博士国士舘創立者であり、総長・理事長・学長を歴任した。正四位勲二等瑞宝章受章。

来歴・人物

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国士舘の設立を協議する有志 前列左から頭山満野田卯太郎渋沢栄一徳富蘇峰、後列左から花田半助渡辺海旭、柴田徳次郎[1]

福岡県那珂郡別所村(現:那珂川市別所)出身[2]。父親の破産によって苦学を強いられるが、周囲の支援によって16歳で上京、正則英語学校に進学[2]。新聞配達員をしながら勉学に励み、芝中学校3年生の編入試験に合格[2]渡辺海旭長谷川良信と出会う[2]。芝中学在籍中の牛乳配達を通じて頭山満野田卯太郎と面識を持つ[3]旧制第二高等学校を受験するが二度不合格に終わり、1912年早稲田大学専門部入学[3]緒方竹虎中野正剛中山博道の知遇を得て、1913年青年大民団を組織する[3]1917年11月4日、大民団の私塾として国士舘を創設する[3]。1919年11月、財団法人を設立すると同時に、高等部を設立[4]

1946年公職追放を受けるも、1953年に追放解除となり、1958年国士舘大学体育学部)を開設した[5]。1973年1月26日、83歳で死去[5]。墓所は、国士舘大学世田谷キャンパス内にある[6]

柴田の思想は、吉田松陰佐倉惣五郎の影響を受けたものとされる[3][5]

三女の夫は国士舘大学常務理事の安高武だが、大学の管理運営をめぐり理事長柴田梵天(徳次郎の息子)とはげしく対立し、1983年、梵天派の大学OBに刺殺された[7]国士舘大学理事刺殺事件)。

著書

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単著

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  • 『国士舘と教育』1926年1月
  • 『革命は如何にして起こるか』国士舘大学出版部、1964年
  • 『日本はこうすれば立直る』国士舘大学出版部、1964年

編著

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  • 柴田徳次郎編『頭山翁清話』大民倶楽部、1923年

作詞

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  • 国士舘舘歌
  • 国士舘学徒吟

出典・脚注

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  1. ^ 野木大義 (2008-03). “柴田徳次郎伝”. 國士舘大學武徳紀要 (24): 9. http://id.nii.ac.jp/1410/00007699/. 
  2. ^ a b c d 野木大義 (2008-03). “柴田徳次郎伝”. 國士舘大學武徳紀要 (24): 21-25. http://id.nii.ac.jp/1410/00007699/. 
  3. ^ a b c d e 泉賢司 (2006-03). “国士舘と柴田徳次郎”. 國士舘大學武徳紀要 (22): 81-108. http://id.nii.ac.jp/1410/00007723/. 
  4. ^ キャンパス万華鏡(国士舘大学)”. 日本私立大学協会. 2021年6月9日閲覧。
  5. ^ a b c 熊本好宏 (2017-03). “国士舘と松陰”. 国士舘人文学 (7): 167-176. http://id.nii.ac.jp/1410/00011330/. 
  6. ^ 創立者柴田徳次郎の祥月命日法要を行いました”. 国士舘大学. 2011年6月5日閲覧。
  7. ^ 阿部彰『戦後教育年表』(風間書房, 2005)727ページ

関連項目

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