柴田勝房
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛延4年/宝暦元年(1751年) |
別名 | 岩五郎(通称) |
官位 | 従五位下 出雲守→左京亮→修理亮→丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 坂本氏→柴田氏 |
父母 |
父:坂本直鎮 養父:柴田勝満 |
兄弟 | 坂本直富の妻、岡部長久の妻、江原全義の妻、柴田勝房、野々山兼続 |
妻 |
先妻:米津政崇の娘 後妻:小笠原政久の娘 |
子 | 柴田勝延、牧野成賢の妻、坂本直寛の妻[注釈 1] 他女子3人 |
柴田 勝房(しばた かつふさ)は、江戸時代後期の旗本。三河国本宿陣屋3520石柴田家当主。祖先とされる柴田勝家の位牌や、旗本柴田家初代勝重の事績を記した文書を春清寺(現在の東京都三鷹市新川)に納め、また同寺に柴田家の由来を記した石碑を立てた。
生涯
[編集]1700石の旗本(小姓組番士)・坂本直鎮の子として生まれる[2][3]。坂本家は直鎮の長女の婿である坂本直富が嫡子となっており[2]、『寛政重修諸家譜』では「直鎮の二男」として扱われている[3]。
実父の直鎮は柴田家から坂本家に養子に入った人物である[3]。明和4年(1767年)、直鎮の大甥にあたる柴田勝満[注釈 2]の末期養子として勝房が迎えられ、17歳で柴田家3020石を継ぐ[3]。
明和5年(1768年)、徳川家治に初めて拝謁[3]。明和6年(1769年)2月に小納戸に列し、3月に小姓に移る[3]。明和7年(1770年)、従五位下出雲守に叙任[3]。天明7年(1787年)、新番頭に転じる[3]。寛政7年(1795年)に小普請組支配[3]、寛政9年(1797年)に持筒頭を歴任[3]。寛政10年(1798年)に致仕し、寄合肝煎となる[3]。『寛政重修諸家譜』編纂時点で当主。
柴田家の祖先追慕
[編集]柴田家は、柴田勝家の子孫とされる家である。勝家の孫(柴田勝政の子)[注釈 3]にあたるという柴田勝重は徳川家に仕え、大坂の陣で武功を挙げて武蔵国仙川郷(現在の東京都調布市・三鷹市付近)に新たな所領を与えられており、当地の春清寺(現在の東京都三鷹市新川)に葬られた[6][7]。なお、柴田家の領地は元禄年間、勝重の孫・勝門の代に三河国額田郡本宿村(現在の岡崎市本宿町)に移されている[8]。
天明5年(1785年)、勝房は春清寺に勝家の位牌を新たに作って奉納し、併せて勝家・勝政・勝重3代の事績について書き記した文書も納めた[6]。この文書の中で、勝重が勝家の兜を祀ったのが勝淵神社(三鷹市新川)の起こりであると記しており[6]、これが「勝淵神社で柴田勝家の兜を祀っている」ことを記した初見史料となっている[6]。寛政8年(1796年)に春清寺に建てられた石碑「柴田家家碑」にもこれと同様の文言が含まれている[6]。勝房の先祖追慕の活動を経て、柴田勝家の兜をめぐる伝承が江戸時代中期に当地に根付いていったと考えられる[6][注釈 4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1107。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1106。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1104。
- ^ 馬場憲一 2015, p. 156.
- ^ a b c d e f 馬場憲一 2015, p. 157.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.1104-1105。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1105。
- ^ 馬場憲一 2015, p. 158.
参考文献
[編集]- 馬場憲一「「記憶の場」の形成と「歴史的環境」との関わりについて : 勝淵神社の柴田勝家兜埋納伝説を事例に」『現代福祉研究』第15巻、法政大学現代福祉学部現代福祉研究編集委員会、2015年、2021年8月29日閲覧。
- 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション