坂本直富
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保18年(1733年) |
死没 | 寛政4年2月2日(1792年2月23日) |
別名 | 安次郎(通称) |
戒名 | 日證 |
墓所 | 東京都港区北青山の持法寺 |
官位 | 従五位下 美濃守→遠江守→美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→徳川家治 |
氏族 | 六郷氏→坂本氏 |
父母 |
父:六郷政豊 母:岡部長雅の娘 養父:坂本直鎮 |
兄弟 |
六郷政寿、坂本直富 養父の実子:直富の妻、岡部長久の妻、江原全義の妻、柴田勝房、野々山兼続 |
妻 | 坂本直鎮の娘 |
子 | 養子:直諒、養女(岡部長久の娘、直諒の妻) |
生涯
[編集]六郷政豊[注釈 1]の二男として生まれる[3][2]。1700石の旗本・坂本直鎮(小姓組番士)の長女を娶り、婿養子となる[4]。
宝暦5年(1755年)、小納戸に列したのち小姓に移り、従五位下美濃守に叙任[3]。
宝暦10年(1760年)4月1日に西の丸[注釈 2]務めとなる[3]。徳川家重の死去に伴い、宝暦11年(1761年)8月4日に寄合に列する[3]。
安永2年(1773年)に徒頭となり[3]、安永5年(1776年)の徳川家治の日光社参に供奉[3]。
天明6年(1786年)、養父の死により家督を相続[3]。天明7年(1787年)、留守居番に転じる[3]。
寛政4年(1792年)、60歳で死去[3]。岡部長久[注釈 3]の娘を養女とし、石河貞貴の六男直諒と娶せて養子として家を継がせた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百八十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.660
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八百八十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.661
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第八百七十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.582
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第三』(続群書類従完成会)