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坂本直富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
坂本直富
時代 江戸時代
生誕 享保18年(1733年)
死没 寛政4年2月2日(1792年2月23日)
別名 安次郎(通称
戒名 日證
墓所 東京都港区北青山の持法寺
官位 従五位下 美濃守→遠江守→美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重徳川家治
氏族 六郷氏坂本氏
父母 父:六郷政豊 母:岡部長雅の娘
養父:坂本直鎮
兄弟 六郷政寿坂本直富
養父の実子:直富の妻、岡部長久の妻、江原全義の妻、柴田勝房野々山兼続
坂本直鎮の娘
養子:直諒、養女(岡部長久の娘、直諒の妻)
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坂本 直富(さかもと なおとみ)は、江戸時代後期の旗本

生涯

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六郷政豊[注釈 1]の二男として生まれる[3][2]。1700石の旗本・坂本直鎮小姓組番士)の長女を娶り、婿養子となる[4]

宝暦5年(1755年)、小納戸に列したのち小姓に移り、従五位下美濃守に叙任[3]

宝暦10年(1760年)4月1日に西の丸[注釈 2]務めとなる[3]徳川家重の死去に伴い、宝暦11年(1761年)8月4日に寄合に列する[3]

安永2年(1773年)に徒頭となり[3]、安永5年(1776年)の徳川家治の日光社参に供奉[3]

天明6年(1786年)、養父の死により家督を相続[3]。天明7年(1787年)、留守居番に転じる[3]

寛政4年(1792年)、60歳で死去[3]岡部長久[注釈 3]の娘を養女とし、石河貞貴の六男直諒と娶せて養子として家を継がせた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 享保18年(1733年)当時は御小姓組出仕[1]。のちに御小納戸頭取・新番頭などを務める[2]
  2. ^ 徳川家重は宝暦10年(1760年)5月3日に隠居。
  3. ^ 長久は御書院番を務めた旗本[5]。直富のいとこ(実母の甥)にあたり[5]、直富の義妹(養父坂本直鎮の二女)を妻とした[5]

出典

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百八十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.660
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八百八十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.661
  3. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。
  5. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第八百七十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.582

参考文献

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