柴田勝太郎
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柴田 勝太郎(しばた かつたろう、1889年(明治22年)2月3日 - 1975年(昭和50年)11月10日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、有機合成化学協会会長、安全工学協会会長等を歴任した。
人物・経歴
[編集]兵庫県朝来市山東町大月生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を経て、1915年東北帝国大学理科大学化学科卒業。同年日本製鋼所に入社するが、室蘭町の寒さで神経痛にかかり、8カ月で退社した。1916年9月の新学期より母校東京高等工業学校電気化学科助教授を務め、アンモニア合成の研究に従事し、1918年に農商務省臨時窒素研究所が設立されると、同研究所のアンモニア合成研究の主任研究員に就任。尿素肥料製造法の開発を行い[1][2][3]、1945年からは東洋高圧工業社長を務め[4]、日本初の試みとなった肥料用尿素の本格的合成にあたった[5]。1955年有機合成化学協会会長[6]。1961年安全工学協会会長[7]。
脚注
[編集]- ^ 「加藤与五郎 人とその生涯」財団法人 加藤科学振興会
- ^ 「クロード式窒素工業の歴史⑦」鈴木商店記念館
- ^ 柴田勝太郎【しばたかつたろう】公益財団法人たんしん地域振興基金
- ^ 三井東圧化学(株)『三井東圧化学社史』(1994.03)渋沢社史データベース
- ^ 「窒素肥料と三井研究室」肥料化学第22号
- ^ 歴代会長有機合成化学協会
- ^ 安全工学会のあゆみ沿革安全工学会
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