枡木屋の獄
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枡木屋の獄(ますごやのごく)は、江戸時代(幕末)に筑前国福岡(現・福岡県福岡市)に存在した福岡藩の監獄。漢字については「桝木屋の獄」とも表記される[1]。
歴史
[編集]福岡藩の監獄は、当初は西中島橋の福岡側の入口にあたる福岡橋口町(現・福岡市中央区天神4丁目、勝立寺脇)にあり、橋口町獄屋と呼ばれた。
安政6年(1859年)に監獄が当時の桝木屋町(現・福岡市中央区唐人町)に移転した[注釈 1]。
仲村慎太郎は、福岡藩で安政2年に徒罪が導入されて、受刑者収容施設(徒罪場)が「舛木屋街」に作られたと2011年の論文に記載している[3]。
一方、白石壽郎は2005年の著書で「桝木屋浜は武士の牢屋、橋口町は一般領民の牢屋であった」と述べている[4]。
慶応元年(1865年)の乙丑の獄に際しては、関与した勤王派14人が投獄された後、処刑が実施された[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “今こそ知りたい幕末明治 脱獄成功を告げる一発の銃声”. 産経新聞. (2018年11月7日) 2024年6月22日閲覧。
- ^ 『角川日本地名大辞典 福岡県』(角川書店、1988年)の「元牢屋町(近世)」の箇所[要ページ番号]には以下の記述がある。江戸期は福岡城下の1町。那珂川河口左岸、城下の東端に位置する。もとは橋口町の一部で牢屋町と通称していたが、安政6年牢獄が桝木屋町に移転し、跡地が武家屋敷となるにともなって橋口町から分かれて当町が成立した。町名は、福岡藩の牢獄の跡地に起立した町であることに由来する。明治5年橋口町の一部となる。
- ^ 仲村慎太郎「福岡藩における刑罰」『七隈史学』第13号、七隈史学会、2011年3月、77-92頁。
- ^ 白石壽郎『「萬年代記帳」に見る福岡藩直方領犯科覚帖』海鳥社、2005年、[要ページ番号]
- ^ 宮崎克則・福岡アーカイブ研究会(編)『古地図の中の福岡・博多』海鳥社、2005年、[要ページ番号]