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板倉勝宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1923年1月17日)は、東京出身の登山家。日本登山界草創期に活躍、山岳地におけるスキー利用の先駆者にもなった[1]

概要

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1897年(明治30年)2月12日備中松山藩最後の藩主板倉勝弼(前年10月に死去)の七男(庶子)として生まれる。学習院高等科を卒業して北海道帝国大学に入学、大学時代にはスキー部に所属した。1922年佐幌岳にスキー登山、大雪山系の旭岳に初登頂したほか、槍ヶ岳北鎌尾根松方三郎らと登攀、新聞には初登頂(実際の初登頂はウォルター・ウェストン)と報道され、新進気鋭の登山家として知られるところとなった。また、同じ頃に新進気鋭の登山家が集まっていることで知られた慶應義塾大学山岳部と交遊を持ち、1922年8月にドイツに向かう鹿子木員信(慶応山岳部初代部長)の壮行を兼ねて、鹿子木や同部の精鋭である槇有恒三田幸夫大島亮吉早川種三らと共に穂高連峰の岩登り合宿に参加している[2]

最後の山行

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1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒三田幸夫(2人とも後に日本山岳会会長に就任する)らとスキー登山を敢行した。立山温泉から、室堂を越えて登頂を目指すが、天候が悪化し断念した。帰路(1月17日)、一帯が猛吹雪となり槇、三田は立山温泉へたどり着けたものの、板倉は立山カルデラの縁にあたる松尾峠付近で低体温症により遭難死した。冬季の立山は、前年に雄山に初登頂が記録されたばかりで知見が不足していたこと、また板倉らが先進の登山用具であるスキーを使用したことで、案内人らとの移動速度に差がついてしまい、別行動となったことも遭難の原因の一つと考えられている[3]。ただし、天候悪化を気にしつつも雄山登頂への欲望が抑えきれなかった板倉ら3名が案内人達を先に帰してしまったとする説もある(この話を聞いた地元出身でもある堀内文次郎は「軽挙で無謀で認識不足」と激怒したという)[4]。なお、槇の著作『山行』によれば、16日の夕方には板倉は危険な状態に陥り、槇がその介抱をする中で三田が立山温泉に救援を求めて1人先に下った後、17日の午前0時57分に槇が板倉の最期を看取り、夜が明けた後に遺体のある場所に目印を付けて山を下り、立山温泉の直前の雑木林で疲労困憊しながら山下りを続けていた三田と合流したとある[4]。板倉が遭難した翌々月の3月10日、立山・黒部横断行を目指していた伊藤孝一が、松尾峠の板倉が遭難した跡地を訪れて弔っていることから、板倉の遺体は遭難後、雪山から速やかに回収されたものと考えられる[5]

遭難後

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若手有望株の登山家らが遭難したことに日本山岳会はショックを受け、ガイドが多数居住する山麓の芦峅寺関係者らと立山一帯に山小屋を建設するべく富山営林署などに働きかけを行った。この結果、13カ所の山小屋が建設されており[6]、現在の池の平小屋などは、この際に建設された小屋をルーツに持つ。

また、1925年、芦峅寺地内に慰霊碑が建立されている[7]

脚注

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  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、114頁。 
  2. ^ 深野稔生『燃えあがる雲 大島亮吉物語』白山書房、2021年、P100-106.
  3. ^ 立山カルデラ研究紀要第11号-芦峅ガイドの系譜p23 五十嶋一晃 2017年12月2日閲覧
  4. ^ a b 春日俊吉「友の遺体を腕に(立山松尾峠)」『山の遭難譜』二見書房、1973年、P54-65.
  5. ^ 伊藤孝一没後50年 山岳映画誕生p4 大町山岳博物館 2017年12月2日閲覧
  6. ^ 上田應輔 編『剱・池の平讃』p16, 剱・池の平会 1993年
  7. ^ 板倉勝宣遺躅の碑 北海道大学山岳部ホームページ