松阪市立第二小学校
松阪市立第二小学校 | |
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北緯34度34分02秒 東経136度32分19秒 / 北緯34.56718度 東経136.53865度座標: 北緯34度34分02秒 東経136度32分19秒 / 北緯34.56718度 東経136.53865度 | |
過去の名称 |
松阪第二尋常高等小学校 松阪第二尋常小学校 松阪第二国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 松阪市 |
併合学校 | 松阪第四尋常小学校(旧・鈴止尋常小学校) |
設立年月日 | 1909年(明治42年)4月 |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B124220420030 |
所在地 | 〒515-0033 |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
松阪市立第二小学校(まつさかしりつ だいにしょうがっこう)は三重県松阪市の市立小学校。
沿革
[編集]1909年(明治42年)4月の松阪第一尋常高等小学校の校区(学区)変更に伴って松阪第二尋常高等小学校として創立した[1]。翌1910年(明治43年)3月に湊町(当時の住所表記、現・五十鈴町にある五十鈴公園の場所[2])に校舎が新築された[1]。1912年(明治45年)4月、高等科を第一尋常高等小学校に統合したため、松阪第二尋常小学校に改称した[1]。1923年(大正12年)4月、松阪第四尋常小学校(現存する松阪市立第四小学校とは別の学校で、旧称は鈴止尋常小学校)を統合した[1]。1935年(昭和10年)12月5日、名松線の開通記念祝賀会が校内で開かれ、鉄道大臣の内田信也や三重県知事の富田愛次郎ら約1,000人が出席した[3]。1941年(昭和16年)4月、国民学校令により松阪第二国民学校に改称、1947年(昭和22年)4月に松阪市立第二小学校へと校名を改めた[1]。
1951年(昭和26年)12月、第二小学校から出火、市街地に燃え広がり松阪大火と呼ばれた[1]。第二小学校は大火で講堂と校舎3棟を焼失し、1棟しか校舎が残らなかった[4]。このため児童は焼け残った校舎、松阪市立殿町中学校・久保中学校、三重大学学芸学部松阪分校(現・松阪市立幸小学校の校地)に分散して授業を受けることとなった[4]。1952年(昭和27年)4月、垣鼻町に仮校舎を設け、学校が再開した[1]。仮校舎は「いすずゴム」の工場を借用したもので、そのまま第二小学校の校地として現在まで継承されている[5]。同年9月3日、松阪市立幸小学校を分離した[5]。
校区
[編集]※は、一部の番地で校区が異なる[6]。市立中学校に進学する場合、松阪市立殿町中学校、鎌田中学校、久保中学校に分かれる[7]。
- 愛宕町(丁目なし及び一 - 四丁目)
- 挽木町
- 茶与町
- 平生町
- 五十鈴町
- 長月町
- 春日町(一 - 三丁目)
- 南町
- 清生町
- 東町
- 宮町※
- 垣鼻町※
児童数
[編集]2009年5月1日現在の児童数は199人[8]。2016年5月1日現在の児童数は8学級147人、教員数は22人[9]。
出身者
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 松阪市史編さん委員会 編(1985):244ページ
- ^ “幸小誕生秘話を連載 まち協伝部会が11月号広報から記録文や写真 子供や住民に伝えたい”. 夕刊三重 (2016年11月15日). 2018年9月22日閲覧。
- ^ 美杉村史編集委員会 1981, p. 163.
- ^ a b “幸まちづくり第54号”. 幸まちづくり協議会. 松阪市 (2016年11月1日). 2018年9月22日閲覧。
- ^ a b “幸まちづくり第55号”. 幸まちづくり協議会. 松阪市 (2016年12月1日). 2018年9月22日閲覧。
- ^ “小学校区一覧”. 松阪市教育委員会事務局学校支援課 (2015年7月2日). 2015年11月6日閲覧。
- ^ “中学校区一覧”. 松阪市教育委員会事務局学校支援課 (2013年7月1日). 2016年11月6日閲覧。
- ^ 松阪市ウェブサイト
- ^ 三重県教育委員会事務局教育総務課(2016):20ページ
参考文献
[編集]- 美杉村史編集委員会『美杉村史 下巻』美杉村役場、1981年3月25日、997頁。全国書誌番号:82006004
- 松阪市史編さん委員会 編『松阪市史 別巻2 索引・年表』蒼人社、1985年1月25日、258p. 全国書誌番号:85028305
- 三重県教育委員会『学校名簿 平成28年度』三重県教育委員会事務局教育総務課、2016年7月、57p.
関連項目
[編集]外部リンク
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