松田誠保
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 兵部少輔 |
主君 | 尼子晴久→義久 |
氏族 | 松田氏 |
父母 | 父:松田満久 |
妻 | 尼子政久娘 |
松田 誠保(まつだ まさやす/さねやす)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子十旗(出雲十旗)の筆頭である出雲国白鹿城主。
略歴
[編集]松田満久の子として誕生。
永禄5年(1562年)7月、毛利氏の出雲侵攻により米原綱寛、三沢為清、三刀屋久扶らと共に降伏する。ところが、先に降伏していた本城常光が毛利元就に謀殺されたことで、再び尼子氏に帰順した。
永禄6年(1563年)8月、牛尾久信と共に籠城し、毛利氏と戦うが、水源を断たれて開城。父・満久は自害し、誠保は隠岐国に逃れる。永禄12年(1569年)、尼子氏再興を誓う山中幸盛に協力し、尼子氏から毛利氏に寝返った隠岐為清を隠岐に追う。後に元亀元年(1570年)の布部山の合戦、天正5年(1577年)の上月城の戦いにも参加したという。
出雲松田氏
[編集]松田氏は相模国波多野郷を発祥とする波多野氏の一族で、波多野義常の子、有経が足柄上郡松田郷を得て松田の名を称した。小田原北条氏や宇喜多氏に仕えた松田氏とは同族である。
出雲国の国人で、安来荘の地頭であった。室町時代の後期には島根郡の美保関等に勢力を伸ばしていた。応仁元年(1467年)頃に尼子氏と関係を結び、その影響下に入ったとされている。その詳細な系譜は複数あって不明な点が多い。