松殿基嗣
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 建久3年(1193年) |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上、左近衛少将、左近衛中将、正五位下、従四位下、従四位上、正四位下、従三位、正三位、従二位、権中納言、正二位、中納言、権大納言 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 松殿家 |
父母 |
父∶松殿師家 母∶藤原隆房の娘 |
兄弟 | 基嗣、実嗣、澄快、承澄、勝尊、澄空、慈弁、覚修、道源、勧誉、房性 |
妻 | 正室∶平光盛の娘 |
子 | 基定、勝円、乗基、娘(二条良忠母) |
松殿 基嗣(まつどの もとつぐ、建久3年(1193年) - 没年不明)は、鎌倉時代の公卿。摂政・松殿師家の息子。主な官位は正二位、権大納言。
経歴
[編集]建久3年1193年に松殿師家の息子として生まれる。基嗣は有力な後継者ではあったが摂政、関白に成らず、最終官位は正二位・権大納言であった。[1]広橋経光の記載によれば、寛喜4年(1232年)3月16日、基嗣は平光盛の娘で、邦子内親王(守貞親王の皇女)に仕える女房が日吉社に参詣するのを途中で待ち伏せて、数騎の軍勢で取り囲み、彼女を連れ去るという蛮行を起こし、権大納言を解任されたのである。このとき、父松殿師家は天王寺の別荘から急ぎ上洛して謝罪したが、九条道家は「一門之恥辱唯在此事」であるとして許さなかった。結果、基嗣とその子孫は、二度と公卿に戻ることなかった[2]。父の師家も同年に出家している。その後、仁治4年(1242年)に出家[1]した。
官歴
[編集]- 元久元年(1204年)
- 従五位上に叙される。
- 元久2年(1205年)
- 元久3年(1206年)
- 承元2年(1208年)
- 従四位上に叙される。
- 建暦元年(1211年)
- 建暦2年(1213年)
- 従三位に叙される。
- 建保3年(1215年)
- 正三位に叙される。
- 建保4年(1216年)
- 従二位に叙される。
- 建保6年(1218年)
- 権中納言に任ざれる。
- 承久元年(1219年)
- 正二位に叙される。
- 承久3年(1221年)
- 中納言に任ざれる。
- 貞応3年(1224年)
- 権大納言に任ざれる。
- 貞永元年(1232年)
- 解官される。
- 仁治4年(1243年)2月
系譜
[編集]藤原隆房の娘 | 師家 | ||||||||||||||||||||||||||||
平光盛の娘 | 基嗣 | 実嗣 | |||||||||||||||||||||||||||
基定 | 乗基 | ||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c 松殿家 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
- ^ 樋口健太郎『摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2021年、149頁。
- ^ a b 松殿家〔絶家・社家〕-公卿類別譜(公家の歴史)