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松本英子 (ジャーナリスト)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松本 英子(まつもと えいこ「ゑい子」とも、結婚後は永井英子 1866年5月2日-1928年3月4日)は明治期の日本の女性ジャーナリストの草分け、新聞記者。足尾銅山鉱毒事件を取材し惨状を訴えた[1]

生涯

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1866(慶応2)年、上総国望陀郡(現在の千葉県木更津市)の富農であった松本貞樹とふさの次女として誕生。キリスト教に入信し人道主義に開明した。東京師範学校女子部を卒業し、外務省翻訳官・家永豊吉と結婚し子を授かるが、この結婚生活は長く続かなかった[2]。1898(明治31)年には華族女学校(後の学習院女子大学)に教員として奉職し、その後東京日日新聞(毎日新聞)に入社した[1]

1901(明治34)年11月から翌年2月にかけて、足尾銅山鉱毒事件を取材し、59回にわたるルポルタージュ記事を執筆した。政府は同年3月に鉱毒問題調査委員会を設置したが、同時に反対運動の弾圧も行い、この中で英子も警察に召喚された。一連の新聞記事の連載を終えそれを『鉱毒地の惨状』という本にまとめると、この年の秋に渡米した[2]

37歳で渡米しパシフィック大学などで学び、ジャーナリストの永井元と再婚した[3]。『在米婦人新報』などに寄稿を続けた。1928(昭和3)年に米国で亡くなった[4]

著作

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脚注

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  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。 
  2. ^ a b 江刺昭子『女のくせに:草分けの女性新聞記者たち』インパクト出版会、19970125。ISBN 4-7554-0061-9 
  3. ^ 『日本人名大辞典』講談社、2001年。 
  4. ^ 府馬清1981『松本英子の生涯』昭和出版