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松平重利 (三木松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 重利
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 延宝8年3月28日 (1680年4月27日)[1]
別名 忠貞[1]、與十郎[1]、九郎右衛門[1]
戒名 直心(法名)[1]
墓所 養国寺
幕府 江戸幕府旗本 大番組頭小普請
主君 徳川家光家綱
氏族 三木松平家
父母 父:松平忠利
長塩正家の娘
忠義大野元脇忠政
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松平 重利 (まつだいら しげとし)は、江戸時代前期の旗本。忠利系三木松平家2代。『寛政重修諸家譜』編纂時に提出された家譜によれば、諱は忠貞[1]

経歴

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三木松平家松平忠利[注釈 1]の子として生まれる[1]。忠利は500石取りの旗本であったが、慶長14年(1609年)に職務上の問題で改易され、寛永9年(1632年)に許されて幕臣に復帰し、300俵を給されている[1]。『寛政重修諸家譜』に、重利の生年(および生年が算出可能な享年)の記載はない。

寛永11年(1634年)3月11日、徳川家光御目見[1]。のちに大番に列する[1]

父の死に伴い、慶安2年(1649年)12月14日に遺跡を継承。万治3年(1660年)2月23日、大番組頭となり[1]、同年12月26日に200俵を加えられる(合計500俵)[1]

寛文4年(1664年)閏5月24日に職を辞し、小普請となる[1]。延宝8年(1680年)3月28日死去[1]

系譜

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『寛政重修諸家譜』には、男子3名が載る[2]

補足

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長男の忠義(与十郎)は番方を歴任し、加増を受けて最終的に500石を知行した[1]

次男(次郎四郎、五平次)は大野家の婿養子となり、大野元脇を称した[3]。大野家は武田旧臣出身で、のちに徳川忠長に附属された家である[5]。元脇の義父の大野元継は、忠長に書院番として仕えたが、忠長改易とともに浪人、のちに幕臣に復帰し、大番入りして最終的に200石を知行した[5]。元継の正室は加賀藩家老・本多政重の娘である[6]

三男の忠政は大番に列し、200俵取りの別家を立てた[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 松平重忠の二男。三木松平家の嫡流は、慶長6年(1601年)12月に隠居の重忠、当主の忠清(忠利の兄)が相次いで没し、忠清に嗣子がなかったために絶家とされている[1]。忠利はこれより先に別家を立てていた[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.17、『新訂 寛政重修諸家譜 第一』p.23
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.17-18、『新訂 寛政重修諸家譜 第一』pp.23-24
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第千三百十八「大野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.939-940
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19、『新訂 寛政重修諸家譜 第一』p.25
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第千三百十八「大野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.939
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千三百十八「大野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.940

参考文献

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  • 続群書類従完成会『新訂 寛政重修諸家譜 第一』1965年、23-24頁