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松平忠継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平忠継
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 承応元年(1652年
死没 正徳5年7月21日1715年8月19日
改名 辰千代(幼名)→与一郎、忠良→忠保[1]
官位 従五位下筑後守[1]
信濃飯山藩世嗣→遠江掛川藩摂津尼崎藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠倶 母:松平定行養女[1]
兄弟 忠継田中主殿
本多康将の娘
忠敏忠喬永井直圓正室、
菅沼定易正室
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松平 忠継(まつだいら ただつぐ)は、江戸時代前期の信濃国飯山藩の世嗣。官位従五位下筑後守

略歴

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承応元年(1652年[1]松平忠倶の長男として誕生[1]

寛文元年(1661年)8月26日、10歳の時に飯山藩嫡子として4代将軍・徳川家綱御目見した[2][3]。寛文5年(1665年)に従五位下筑後守に叙任する[2]。しかし元禄7年(1694年)12月28日、病を理由として廃嫡され、飯山で隠棲した[2]

代わって忠継の長男・忠敏が飯山藩の世嗣となったが、元禄8年(1895年)に早世[2]。忠継の二男・忠喬が元禄9年(1896年)に飯山藩を継ぐこととなった[2]。忠喬は宝永3年(1706年)に掛川藩、宝永8年(1711年)に尼崎藩に転封された。

正徳5年(1715年)7月21日、尼崎で死去[2]。64歳[2]

系譜

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特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.28
  2. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.29
  3. ^ 岩城卓二. “藩主の一生”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/24
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)