松平憲良
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(松平忠憲から転送)
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和6年(1620年) |
死没 | 正保4年8月13日(1647年9月11日) |
改名 | 八五郎(幼名)、憲良、忠憲 |
別名 | 五郎 |
戒名 | 月山宗江高樹院 |
墓所 |
東京都板橋区小豆沢の総泉寺 長野県小諸市荒町の宗心寺 |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 美濃国大垣藩藩主、信濃国小諸藩藩主 |
氏族 | 久松松平家[1] |
父母 | 父:松平忠良、母:酒井家次娘 |
兄弟 | 金田房能室、忠利、梅渓院、松平直政室、佐久間勝友正室、憲良、善福寺永海室、土屋外記某室、康尚、喜太郎[2] |
妻 | 正室:永井尚政の娘 |
子 | 娘(松平隆政正室) |
松平 憲良(まつだいら のりよし[2])は、江戸時代前期の大名。美濃国大垣藩の第2代藩主、のち信濃国小諸藩藩主。官位は従五位下・因幡守[2]。通称は五郎[3][2]。はじめ憲良、のち忠憲を名乗る[2]。妻は永井尚政の娘[2]。
生涯
[編集]元和6年(1620年)、美濃大垣藩の初代藩主・松平忠良の次男(嫡男)として大垣で誕生[2]。母は酒井家次の娘[2]。
寛永元年(1624年)6月、父の死去により5歳で家督を相続し、遺領を継ぐ[3][2]。しかし幼少のため、同年9月、信濃国小諸に移封された[3][2]。所領は、佐久郡の北半分、小県郡内23か村、および北沢村内で1万石(現・佐久市)、計5万石だった[1]。このうち、庶兄・忠利に、小県郡3000石、佐久郡2000石、計5000石を分知した(祢津知行所)[4][3][2]。
寛永11年(1634年)12月、従五位下・因幡守に叙位・任官する[2]。寛永18年(1641年)、はじめて小諸城に入った(それまで生活の中心は江戸にあった)[1][2]。藩政では、荒れ地の再開発や新田開発に特に力を入れた[5]。また、寛永年間に検地を行ない、5カ所の寺を開基するなどして治世の安定に努めた[4]。
正保4年(1647年)8月13日、死去した[3][2]。享年28[6][2]。法名は月山宗江高樹院[2]。総泉寺に葬られた[2]。
嗣子がなかったため改易となった[6][3]。慶安元年(1648年)閏1月20日、弟・康尚が憲良の名跡を継ぎ、下野国那須郡内に1万石を与えられた[5][2]。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦等 編『新訂 寛政重修諸家譜』 第一、続群書類従完成会、1964年2月25日。NDLJP:2983748。(要登録)
- 南佐久郡誌編纂委員会 編『南佐久郡誌』《近世編》南佐久郡誌刊行会、2002年3月25日。NDLJP:9541203。(要登録)
- 塩川友衛『小諸藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年8月。