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松平忠広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 忠広
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文4年(1535年[1]
死没 慶長16年9月28日1611年11月2日[1]
別名 甚九郎[2]
戒名 西誉道性[1]
官位 越中守[2]
主君 松平家忠忠吉
清洲藩 家老
氏族 阿知和松平氏[3]
父母 父:阿知和玄鉄[2]
兄弟 忠広[注釈 1]
秀勝、松井茂兵衛、正広彦坂光正の妻[5]
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松平 忠広(まつだいら ただひろ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将東条松平家の家臣。

略歴

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三河国戦国大名松平氏の支流にあたる能見松平家の二代重親の孫、阿知和松平氏を継いだ重忠(玄鉄)の子という[6]東条松平家家忠に仕え、主にその家老松平康親の指揮に属した[2]。『張州府志』は永禄3年(1560年1月尾張村木砦を守備し、水野信元の軍勢を退けたという記事を載せている[注釈 2][7]。永禄4年(1561年吉良義昭との戦いに戦功があった。天正7年(1579年駿河持船城攻略では山内真次らとともに一番乗りを果たした[2]

天正9年(1581年)松平家忠が没すると、徳川家康の四男・忠吉が東条家を継ぎ、翌年には駿河三枚橋城主となった。天正18年(1590年)忠吉が忍城主となると、忠広はその家老に就く。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは先陣を務め、戦後に忠吉が清洲藩に封じられると4,000石を知行、慶長11年(1606年)には1,000石を加増された。慶長16年(1611年)清州にて77歳で没。家督は子の秀勝が継承した[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』の能見松平家の系図には、阿知和玄鉄の子として玄以・本多忠勝の室の一男一女を載せ、忠広に該当する人物を載せていない[4]
  2. ^ 村木砦は天文23年(1554年村木砦の戦い織田水野勢に陥落させられているため、永禄3年に村木砦が松平氏(今川氏)方にあったとする説には史実性に疑義がもたれている[7]

出典

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  1. ^ a b c 『士林泝洄』, p. 12.
  2. ^ a b c d e 『士林泝洄』, p. 11.
  3. ^ 『士林泝洄』, p. 10.
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 178–179.
  5. ^ 『士林泝洄』, pp. 13–14.
  6. ^ 『士林泝洄』, pp. 10–11.
  7. ^ a b 『張州府志』, p. 786.
  8. ^ 『士林泝洄』, pp. 11–12.

参考文献

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  • 士林泝洄』 3巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1968年。 
  • 『張州府志』愛知県郷土資料刊行会〈愛知郷土資料叢書〉、1974年。 
  • 寛政重修諸家譜』 1巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0205-5