コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山内真次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山内 真次
時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期
生誕 天文23年(1554年[1][2]
死没 寛永5年7月2日1628年8月1日[1][2]
別名通称)彦八郎、作十郎、治太夫[3][4]
戒名 悦巌宗喜[2]
墓所 大光院[1]
主君 関越後、小笠原氏助松平家忠忠吉松平忠輝徳川義直
清洲藩 藩士
川中島藩/高田藩 藩士
尾張藩 旗奉行
氏族 山内氏[4]
父母 父:山内真忠[3][4]
兄弟 真次、大須賀九郎左衛門の妻、進士清三郎の妻[5]
真吉富永兼勝の妻、真秀真弘真永[6]
テンプレートを表示

山内 真次(やまのうち さねつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将

略歴

[編集]

遠江国城東郡西方[注釈 1]の人。若い頃に尾張国に出て関越後という武士に従い、16歳の時に初首を挙げたという。後に故郷に帰り、近隣領主の高天神城主・小笠原氏助に仕える。元亀3年(1572年武田信玄西上作戦によって高天神城が攻められた時、浜松城徳川家康への使者に立てられている[3][7]

次いで東条松平家松平家忠の家臣となり、同家老松平康親の指揮下に入る。康親とともに諏訪原城に入り、遠江・駿河戦線に転戦してしばしば武功を挙げた。天正9年(1581年)松平家忠の没後はその跡を継いだ松平忠吉の配下となり、引き続き松平康親・康重父子の指揮に従う。天正10年(1582年)康親が駿河三枚橋城に移るとこれに従い、天正壬午の乱では後北条氏の軍勢と戦う。天正18年(1590年小田原征伐では鷹ノ巣城攻めで戦功があった。同年に徳川氏関東転封となるが、真次は故郷を去り難いとして一旦辞去した。しかし程なく忍城主となっていた松平忠吉に再仕官し、400石を与えられている。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いに従軍。戦後に忠吉が尾張清洲藩主となると300石を加増された[3][8]

慶長12年(1607年)忠吉が亡くなると家康の命で川中島藩主・松平忠輝に1,100石で附属させられ、忠輝が越後高田藩主となるとさらに300石を加増された。大坂の陣では両陣出陣し、夏の陣では松平重勝の指揮下にあった。元和2年(1616年)忠輝が改易となると、尾張藩に就封していた徳川義直に仕えた。寛永7年(1628年名古屋で没。長男の真吉は病弱だったために別家を立て、家督は次男の真秀が継承した[9][5]

逸話

[編集]
  • 諏訪原城在城時、田中城板垣信安の軍勢と戦った際[注釈 2]、真次は同僚の進士清三郎[注釈 3]とともに殿を務めた。そのうち真次は矢を使い尽くしてしまったので、清三郎の矢を借りて戦った。やがて敵将の志村金右衛門[注釈 4]が、強弓によって背後にあった松の木ごと射抜かれた。戦後、板垣信安は志村を射抜いた矢を諏訪原城へ送り返し、その強弓を称賛した。その矢には清三郎の名が書かれていたものの、清三郎は「そのような強弓ならば真次が射たものでしょう」と言い、真次は「矢に清三郎の名が書かれているのだから清三郎が射たのでしょう」と互いに譲り合った。松平康重はこの二人の謙遜を徳として双方に感状を与えたという。後年、この事情を知っていた徳川家康はこの功績を真次のもとの考え、矢5本を下賜している[15][10]
  • 真次は関ヶ原の戦いまでに各地を転戦し、33の首級を挙げる武功を立てていた。関ヶ原の戦いの後、真次は故郷の東泉庵で法華経千部を読誦する法要を執り行い、自らが討ち取った者らへの首供養を行っている[9][16]
  • 慶長12年(1607年松平忠吉江戸で死去すると、その旧臣だった小笠原吉光は江戸に駆け付けて、真次を介錯に指名して増上寺殉死した。介錯の際、真次は二振りで吉光の首を落としたが、これを見物していた伊達政宗は「礼の太刀、二の太刀で首を落とすのは切腹の介錯の作法に乗っ取っている。真次は武家の故実をよく知っている」と称賛したという。また吉光は生前より、もし自分が切腹することがあれば介錯は真次に任せたいと公言し、念書を常に持ち歩いていたという[17][18]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現在の静岡県菊川市西方。
  2. ^ 常山紀談』は、この時の敵将を山県昌満としている[10]
  3. ^ 進士清三郎は遠江の人で、真次の姉妹を娶った。天正期に東条松平家に出仕。一時、真次と同じく高田藩士となり国奉行を務める。清洲藩時代には1,000石取り、町奉行を務めた[11][5][12]
  4. ^ 志村金右衛門は甲斐国八代郡の人[13]。『甲陽軍鑑』に若手の「板垣衆」として名が見える。元飯富虎昌配下で、虎昌没後に板垣信安に附属させられていた[14]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 『名古屋市史』, p. 第1 294.
  2. ^ a b c 『士林泝洄』, p. 61.
  3. ^ a b c d 『名古屋市史』, p. 第1 293.
  4. ^ a b c 『士林泝洄』, p. 55.
  5. ^ a b c 『士林泝洄』, pp. 55–61.
  6. ^ 『士林泝洄』, pp. 61–66.
  7. ^ 『士林泝洄』, pp. 55–56.
  8. ^ 『士林泝洄』, pp. 56–60.
  9. ^ a b 『名古屋市史』, pp. 第1 293-294.
  10. ^ a b 『常山紀談』, p. 148.
  11. ^ 中村 1997, p. 487.
  12. ^ 『分限帳集成』, p. 134.
  13. ^ 『甲陽軍鑑』, p. 211.
  14. ^ 『甲陽軍鑑』, p. 212.
  15. ^ 『士林泝洄』, pp. 56–57.
  16. ^ 『士林泝洄』, p. 60.
  17. ^ 『名古屋市史』, pp. 第1 327-328.
  18. ^ 『士林泝洄』, pp. 60–61.

参考文献

[編集]
  • 中村孝也『家康の族葉』碩文社、1997年。ISBN 978-4-88200-303-8 
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史 人物編』国書刊行会、1981年。 
  • 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。 
  • 埼玉県民部県史編さん室 編『埼玉県史調査報告書 分限帳集成』埼玉県民部県史編さん室、1987年。 
  • 常山紀談』 上巻、鈴木棠三(校注)、角川書店角川文庫〉、1965年。 
  • 甲陽軍鑑』 下、磯貝正義; 服部治則(校注)、人物往来社〈戦国史料叢書〉、1966年。