コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平勝房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平勝房
時代 江戸時代中期
生誕 元禄15年3月18日1702年4月14日[1]
死没 延享3年12月30日1747年2月9日[1]
改名 源三郎(幼名)[2]→勝房
別名 大内記[注釈 1]
戒名 徳広院殿随巌道喜大居士[3]
墓所 東京都豊島区巣鴨白泉寺
官位 従五位下美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
下総多古藩
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝以、母:池田政武養女
兄弟 権太郎、勝房
養兄弟:神保茂清水野吉藤
正室:水野忠定[3]
養子:勝尹
テンプレートを表示

松平 勝房(まつだいら かつふさ)は、江戸時代中期の大名下総国多古藩2代藩主。官位従五位下美濃守

生涯

[編集]

元禄15年(1702年)3月18日、初代藩主・松平勝以の次男として誕生。長兄・権太郎は早世しているために世子となり、正徳3年(1713年)9月15日に12歳で徳川家宣御目見している[3]享保元年(1716年)12月に従五位下・美濃守に叙位・任官する[3]。享保13年(1728年)4月9日、父の死去により家督を継いだ[3]。享保14年(1729年)、300俵取りの分家当主であった松平勝尹[注釈 2]を養子に迎えた[4][2]

享保21年(1736年)4月6日、家督を勝尹に譲って隠居[3]延享3年(1746年)12月30日に死去した[3][1]。享年45[3]

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『多古町史』によれば美濃守を称したのち「大内記」と改めたという[2]
  2. ^ a b 勝尹は松平勝秀の孫。勝秀は松平勝義の七男で、松平勝以の実兄である。血縁上、勝尹は勝房の従甥(従兄弟の子)にあたる。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 松平勝房”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c 通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.281、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.287。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.284、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.290。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]