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松平勝升

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平勝升
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永7年5月10日1778年6月4日
死没 文政元年9月5日1818年9月19日
別名 辰次郎→源三郎[注釈 1]
戒名 徳誠院殿泰山道光大居士
墓所 東京都豊島区巣鴨白泉寺
官位 従五位下中務少輔大蔵少輔[2]、豊前守[2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
下総多古藩
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝全、母:松平信直
兄弟 勝従勝升村上正方全好
正室:植村家長
養子:勝権寿美
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松平 勝升(まつだいら かつゆき[3])は、江戸時代中期から後期にかけての大名下総国多古藩5代藩主。官位従五位下中務少輔大蔵少輔

略歴

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安永7年(1778年)5月10日[3]、4代藩主・松平勝全の次男として誕生。兄・勝従が早世したため、安永8年(1779年)4月25日に世子となる[1]寛政3年(1791年)12月1日、14歳の時に将軍徳川家斉御目見[1]

寛政6年(1794年)10月6日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ[1]。12月16日に従五位下・中務少輔に叙位・任官する[1]。寛政7年(1795年)2月、初めて封地多古へ赴く半年の暇を得る[2]。しばしば江戸城各門の番役を勤めた[2]

文政元年(1818年)8月19日[3]に死去した[注釈 2]。享年41[3]。跡を養子・勝権が継いだ。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「源三郎」は家祖松平康俊の通称であり、多古松平家では歴代当主(勝忠勝以を除く)が「源三郎」を称している。兄の勝従が源三郎を名乗っていたが[1]、勝升がこれを受け継いで名乗っている。
  2. ^ 文政元年9月5日1818年10月4日[要出典]没という異説もあるという。

出典

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  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.282、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.288。
  2. ^ a b c d 通史編第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2023年6月4日閲覧。
  3. ^ a b c d 松平勝全”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年3月15日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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