松平勝升
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永7年5月10日(1778年6月4日) |
死没 | 文政元年9月5日(1818年9月19日) |
別名 | 辰次郎→源三郎[注釈 1] |
戒名 | 徳誠院殿泰山道光大居士 |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の白泉寺 |
官位 | 従五位下中務少輔、大蔵少輔[2]、豊前守[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 下総多古藩主 |
氏族 | 久松松平家康俊流 |
父母 | 父:松平勝全、母:松平信直娘 |
兄弟 | 勝従、勝升、村上正方、全好 |
妻 | 正室:植村家長娘 |
子 | 養子:勝権、寿美 |
松平 勝升(まつだいら かつゆき[3])は、江戸時代中期から後期にかけての大名。下総国多古藩5代藩主。官位は従五位下・中務少輔、大蔵少輔。
略歴
[編集]安永7年(1778年)5月10日[3]、4代藩主・松平勝全の次男として誕生。兄・勝従が早世したため、安永8年(1779年)4月25日に世子となる[1]。寛政3年(1791年)12月1日、14歳の時に将軍徳川家斉に御目見[1]。
寛政6年(1794年)10月6日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ[1]。12月16日に従五位下・中務少輔に叙位・任官する[1]。寛政7年(1795年)2月、初めて封地多古へ赴く半年の暇を得る[2]。しばしば江戸城各門の番役を勤めた[2]。
文政元年(1818年)8月19日[3]に死去した[注釈 2]。享年41[3]。跡を養子・勝権が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/151