松平勘敬
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 貞享3年(1686年) |
死没 | 寛延2年12月29日(1750年2月5日) |
改名 | 重堅(初名)、勘敬、良祐(法名) |
別名 | 権兵衛、孫大夫 |
戒名 | 清浄院 |
墓所 | 西迎寺 |
官位 | 従五位下、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 大坂船手、大坂町奉行、普請奉行、小姓組、書院番、留守居 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗、家重 |
氏族 | 深溝松平家 |
父母 |
父:小笠原常春、母:松平重良養女(戸田正吉の娘) 養父:松平重矩、養母:松平定由の娘 |
兄弟 | 小笠原常喜、勘敬、丸毛利広、松平信興[1]室 |
子 | 権兵衛、杉浦政武室、忠刻、三次郎、忠刻養女、常唯、常尹、女子、桜井在屋室 |
松平 勘敬(まつだいら すけゆき、貞享3年(1686年)- 寛延2年(1749年)12月29日)は江戸時代前期から後期にかけての旗本。
略歴
[編集]旗本・小笠原常春の次男として誕生。宝永3年(1706年)8月29日、母方の叔父にあたる松平重矩の養子となって家督を継ぎ、10月1日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁。
正徳4年(1714年)3月1日大坂船手に就き、5月28日に布衣の着用を許される。
享保9年(1724年)3月7日大坂町奉行に転任、4月1日従五位下日向守に叙任。享保17年(1732年)享保の飢饉の際に飢餓民救済を担当、その功績を賞され翌年8月28日時服3領と黄金5枚を賜る。
元文3年(1738年)2月28日普請奉行に転任。元文5年(1740年)8月4日小姓組番頭に転任。寛保3年(1743年)6月12日書院番頭に転任。
寛延2年(1749年)3月26日留守居に転任。同年11月13日に職を辞し、12月29日(1750年2月5日)死去。享年64。
常唯の後は、常尹(常唯の弟)→勘満(常唯の子)→勘英(勘満の子)→勘美(勘英の子)→外記(助之丞の子)と続く。
系譜
[編集]父母
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重脩諸家譜』第1輯,國民圖書,1922. 国立国会図書館デジタルコレクション 94コマ目 https://dl.ndl.go.jp/pid/1082717/1/94 (参照 2024-02-22)