松山千春のオールナイトニッポン
松山千春のオールナイトニッポン | |
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ジャンル | トーク |
放送方式 | 生放送 |
放送期間 |
1977年10月5日 - 1979年3月26日 1980年4月8日 - 1981年3月31日 |
放送時間 |
毎週水曜日 27:00 - 29:00(水曜2部) → 毎週月曜日 25:00 - 27:00(月曜1部) → 毎週火曜日 25:00 - 27:00(火曜1部) (JST) |
放送局 | ニッポン放送 |
ネットワーク | NRN |
パーソナリティ | 松山千春 |
特記事項: 1979年4月から1980年3月の間は中断 |
『松山千春のオールナイトニッポン』(まつやまちはるのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送の深夜放送『オールナイトニッポン』で松山千春がパーソナリティを担当したラジオ番組である。
放送時間
[編集]- 水曜2部 1977年10月5日 - 1978年3月27日 27:00 - 29:00 (木曜未明3:00 - 5:00)
- 月曜1部 1978年4月3日 - 1979年3月26日 25:00 - 27:00 (火曜未明1:00 - 3:00)
- 火曜1部 1980年4月8日 - 1981年3月31日 25:00 - 27:00 (水曜未明1:00 - 3:00)
概要
[編集]北海道を拠点に活動していた松山が本格的に東京に進出したラジオ番組である。1978年4月に2部から1部に昇格して初の全国ネット番組進出を果たした[1]。
これについて、松山自身は2024年8月4日にエフエムナックファイブで放送された『松山千春 ON THE RADIO』の番組内で「半年たったら俺がオールナイトニッポンの1部に昇格しましてね、そのときの2部がTHE ALFEE。今でも思い出すね、『頑張れよ、お前ら、しっかりやれよ』とか言ってね。先輩だった。私、後輩だったんですよね。何なんだろう、あの根拠のない自信からくる態度のデカさ。今でもビックリするわな」と、苦笑しながら当時を振り返っていた[2]。また、松山自身は2024年8月25日に、エフエムナックファイブで放送された『松山千春 ON THE RADIO』の番組内で「オールナイトニッポン、それも2部ですよね。(午前)3時ー5時か? 1部がタモリさんがしゃべってそれを受けて2部。今から考えたらさ、あれ時代だよな。今、ラジオを聴く…。なかなかないだろ? けどラジオはこれからも続けていきたいと思います」と話していた[3]。
1979年3月26日の月曜1部時代の最終回の放送で「きっとまた帰って来るからな!」と言い残し[4]、その言葉通り一年後の1980年4月8日から火曜1部でオールナイトニッポンに復帰した。復帰に際して記者会見を行い、「オールナイトニッポンも曲がり角に来ていると思うので、去年まで以上に僕のメッセージをアピール出来るようにしたい」といったことを話している[5]。
2023年2月18日『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』の中で19時 - 21時枠で復活[6]。
コーナー
[編集]- 社会福祉関係のコーナー
- プロ野球情報
- 私のすきなもの
- リスナーが好きなものをハガキで募集して、松山が紹介する[7]。
- アカペラコーナー
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ ラジオパラダイス(三才ブックス)1988年7月号特集「これが史上最強のオールナイトニッポン2部だ!」p.12
- ^ 「松山千春「何なんだろう、あの根拠のない自信からくる態度のデカさ」」『サンケイスポーツ』2024年8月5日。2024年8月5日閲覧。
- ^ 「松山千春「1部がタモリさんがしゃべってそれを受けて2部。今から考えたら…」」『サンケイスポーツ』2024年8月26日。2024年8月26日閲覧。
- ^ 『ラジオライフ』第1巻第1号、三才ブックス、1980年6月1日、8頁。
- ^ 季刊ランラジオ(自由国民社)1980年春号 p.41 ニッポン放送番組表。
- ^ オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル
- ^ 『ラジオライフ』第2巻第2号、三才ブックス、1981年3月1日、68頁。
- ^ 明星 1978年8月号 p.138
水曜2部 | ||
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前担当
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松山千春のオールナイトニッポン
水曜 27:00 - 29:00 |
次担当
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月曜1部 | ||
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前担当
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松山千春のオールナイトニッポン
月曜 25:00 - 27:00 |
次担当
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火曜1部 | ||
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前担当
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松山千春のオールナイトニッポン
火曜 25:00 - 27:00 |
次担当 所ジョージ
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