松喜屋 (百貨店)
種類 |
合名会社[3] ↓ 株式会社[3] |
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本社所在地 | 横浜市中区伊勢佐木町3-105[4] |
設立 |
創業 1918年(大正7年)5月20日[5] ↓ 合名会社 松喜屋酒井商店 1930年(昭和5年)5月26日[1] ↓ 株式会社 松喜屋 1946年(昭和21年)5月13日[3] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店 |
資本金 |
合名会社 松喜屋酒井商店 設立時 5万円[1] ↓ 株式会社 松喜屋 設立時 19万8000円[3] ↓ 2000万円[6] |
売上高 | 13億円[6] |
従業員数 | 285[4] |
決算期 | 5月期[7] |
関係する人物 | 酒井定一(初代社長) |
松喜屋 Matsukiya | |
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店舗概要 | |
所在地 | 横浜市中区伊勢佐木町3-105[4] |
敷地面積 | 1,911 m²[6] |
延床面積 | 7,356 m²[4] |
商業施設面積 |
6,415m2 ↓ 6,415 m²[4] |
営業時間 | 10:00-18:00[4] |
最寄駅 | 関内駅[8] |
松喜屋 保土ヶ谷分店 Matsukiya | |
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店舗概要 | |
所在地 | 横浜市保土ケ谷区天王町178[9] |
松喜屋(英文:Matsukiya) は、横浜市中区伊勢佐木町にあった日本の百貨店[4]。
横浜港に立っていた灯台が玄関横に設置されていたことから「赤灯台」の名で呼ばれており[10]、「合名会社 松喜屋酒井商店」を設立した当時も「赤灯台 松喜屋」の名称で呼ばれていた[1]。
歴史・概要
[編集]愛知県丹羽郡大口町字小口出身の酒井定一が横浜・伊勢佐木町の伊東呉服店の勤めたのちに、当主支援の下に独立[1]。 1918年(大正7年)5月20日に「松喜屋呉服店」を開いたのが始まりである[11]。 創業直後の1920年(大正9年)の恐慌時には現金で叩き買いをして巨利を上げるなど商才を発揮[1]。
関東大震災で被災し、大きなダメージを受けたものの、震災後の区画整理を利用して1927年(昭和2年)に鉄筋コンクリート造・3階建ての店舗を開設した[1]。 その後、横浜市保土ケ谷区天王町に支店を開設した[1]。
そして、1930年(昭和5年)5月26日に資本金5万円で「合名会社 松喜屋酒井商店」を設立して法人化した[1]。
1940年(昭和15年)3月20日に神奈川県内に本拠地を置く百貨店で初めての商店報国会となった「松喜屋商業報国会」を結成した[12]。
第2次世界大戦後に当社は敷地の後ろ側部分を接収され[13]、焼け跡の残った敷地に[14]木造2階建ての店舗を開設して営業を再開した[15]。
1946年(昭和21年)5月13日に資本金19万8000円で「株式会社 松喜屋呉服店」に改組[3]。 同年12月17日から3日間、当店で「公定価格」で主要な生活必需品を展示・販売する「〇公展示会」が「経済防犯協力会」によって開催された[16]。
そして、1947年(昭和22年)2月10日に「同胞援護会」が当店内に「生活必需物資領付所」を開設し[17]、1948年(昭和23年)10月29日に同会事務局内に移転するまで運営された[18]。
1948年(昭和23年)12月10日に横浜市結婚相談所が当店内に設置された[19]。
1952年(昭和27年)に接収解除を受け[13]、1953年(昭和28年)9月に鉄筋コンクリート造[7]地上3階建ての店舗を建設した[20]。 エスカレーター2基を3階まで設置した[21]。 同年11月17日の理事会で承認を受けて、日本デパートメントストア協会へ加盟した[5]。
木造部分の[22]旧店舗の建替え工事に伴って[21]、1956年(昭和31年)6月1日に近隣の旧・湘南百貨店跡に約400坪の仮店舗を開設[21]。 鉄筋コンクリート造[23]地下1階・地上3階建ての新館を建設して[20]延べ床面積5,280m2へ店舗を増床し[23]、同年11月22日に新装開店した[24]。
4階と5階を増築して[20]鉄筋コンクリート造り地下1階・地上5階建て・延べ床面積6,670m2へ店舗を増床し[7]、1960年(昭和35年)12月2日に新装開店した[25]。
この当時、伊勢佐木町にあった3つの百貨店の中では、当店は最も歴史が短く、店舗の規模も最も小さかった[26]。
1961年(昭和36年) にIBMの電子計算機を神奈川県内に本拠地を置く百貨店で初めて導入し[27]、1963年(昭和38年)9月29日に[28]売り場330m2のスーパーコーナーを開設してセルフサービス方式を一部で導入する[29]など近代化を進めた。
このころの顧客層は官庁関係者や婦人会単位の団体客が多く、地区別では横浜市の南区・中区・西区・磯子区・金沢区の順に来店客を集めていた[30]。
しかし、第2次世界大戦前には、隣接する尾上町交差点が横浜市電の一大ターミナルとなっていたが、戦後はバス路線が横浜駅前をターミナルとする路線網となり、商業の立地条件面で伊勢佐木町よりも横浜駅周辺の方が優位へと変わった[31]。
そんな交通網の整った横浜駅西口にあったスタンダード・バキューム・オイルの土地を接収解除後に買収した相模鉄道から、同地への出店を持ち掛けられたものの出店せず、横浜高島屋が出店[32]。 この横浜高島屋を中心とする横浜駅西口の商業集積に、当店のある伊勢佐木町は敗れて衰退し、後の当店の閉鎖に繋がった[31]。
そうした中で、1964(昭和39)年に5月に根岸線が磯子駅まで開通した際には、伊勢佐木町の集客力が向上するとの期待に反して、最寄り駅の関内駅の利用者は前年比で大幅に減少するなど当店の立地する伊勢佐木町地区の立地条件は好転しなかった[8]。
そうした影響もあり、1968年(昭和43年)5月末で百貨店としての営業を終了してスーパーマーケットへ業態転換することになった[8]。 その為、同年5月31日に日本百貨店協会を脱会した[33]。
1969年(昭和44年) 3月11日に「ほていや」との合併契約を締結し、その傘下に入った[34][35]。 同年4月25日に「ほていやイセザキセンター店」として新装開店した[36]。
その後、1976年(昭和51年)8月21日に当社は、「名浜株式会社」と「株式会社西川屋」、「犬山食品株式会社」と共に株式会社ユニー(2代目)に吸収合併された[37]。
年表
[編集]- 1918年(大正7年)5月20日 - 酒井定一が横浜市中区伊勢佐木町に「松喜屋呉服店」を創業[11]。
- 1927年(昭和2年) - 鉄筋コンクリート造・3階建ての店舗を開設[1]。
- 1930年(昭和5年)5月26日 - 資本金5万円で「合名会社 松喜屋酒井商店」を設立して法人化[1]。
- 1940年(昭和15年)3月20日 - 神奈川県内に本拠地を置く百貨店で初めての商店報国会となった「松喜屋商業報国会」を結成[12]。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1952年(昭和27年) - 敷地後ろ側部分の接収解除[13]。
- 1953年(昭和28年)9月 - 接収解除を受けて鉄筋コンクリート造[23]地上3階建ての店舗を建設[20]。
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1960年(昭和35年)12月2日 - 4階と5階を増築して[20]鉄筋コンクリート造り地下1階・地上5階建て・延べ床面積6,670m2へ店舗を増床し[7]、新装開店[25]。
- 1961年(昭和36年) - IBMの電子計算機を神奈川県内に本拠地を置く百貨店で初めて導入[27]。
- 1963年(昭和38年)9月29日[28] - 売り場330m2のスーパーコーナーを開設して[29]セルフサービス方式を一部で導入する[28]。
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 1976年(昭和51年)8月21日 - 「名浜株式会社」と「株式会社西川屋」、「犬山食品株式会社」と共に株式会社ユニー(2代目)に吸収合併[37]。
かつて存在した支店
[編集]- 保土ヶ谷支店(横浜市保土ケ谷区天王町179[40])
- 子安支店(横浜市神奈川区子安町[41])
- 大口支店(横浜市神奈川区大口通1[39]、1955年(昭和30年)7月3日開設[39])
- 蒲田支店(東京都蒲田区西口通[41])
- 卸部(横浜市中区若葉町1-13[40])
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『織物商要鑑 昭和5年度調査 関東之部 其ノ1』 信用交換所東京局、1930年10月30日。pp427
- ^ 『横浜会社要覧 附録・横浜組合名鑑 昭和15年版』 村松博生堂、1940年1月5日。pp216
- ^ a b c d e f 『全国繊維企業要覧 昭和43年版』 信用交換所大阪本社、1967年9月15日。pp2028
- ^ a b c d e f g 『デパート・ニューズ調査年鑑 1967年度版』 デパート・ニューズ社、1967年4月30日。pp281
- ^ a b “第三十三回理事會報告”. 日本デパートメントストア協会通報 1953年12月号 (日本デパートメントストア協会) (1953年12月10日).pp1
- ^ a b c 『日本繊維商社銘鑑 1969年版』 東京信用交換所、1968年9月15日。pp1767
- ^ a b c d 『日本纖維商社銘鑑 昭和39年版 下巻』 東京信用交換所、1964年8月20日。pp781
- ^ a b c d 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパート・ニューズ社、1970年。pp24
- ^ 『職業別電話名簿 第20版 甲篇』 日本商工通信社、1930年11月5日。pp138
- ^ 『観光カラーガイドシリーズ 6 湘南・三多摩,伊豆七島』 山田書院、1967年7月1日。pp54
- ^ a b 『全国繊維企業要覧 昭和43年版』 信用交換所大阪本社、1967年9月15日。pp2028
- ^ a b 『調査概報 第6集 横浜市民戦時生活年表未定稿(その2 昭和15-17年)』 横浜市、1976年3月31日。pp17
- ^ a b c 『神奈川年鑑 昭和34年度版』 神奈川新聞社、1958年10月10日。pp157
- ^ 『戦後横浜経済十年史』 横浜市立大学経済研究所、1957年3月31日。pp57
- ^ 『Y校八十周年記念誌』 横浜市立横浜商業高等学校、1962年10月27日。pp117
- ^ a b 『神奈川県警察史 下巻』 神奈川県警察本部、1974年3月30日。pp315
- ^ a b 『同胞援護会会史』同胞援護会会史編纂委員会、1960年6月20日。pp341
- ^ a b 『同胞援護会会史』同胞援護会会史編纂委員会、1960年6月20日。pp342
- ^ a b 『横浜市例規類集』 帝国地方行政学会、1949年4月15日。pp461
- ^ a b c d e f 『繊維小売年鑑 1965年版』 繊維小売年鑑刊行会、1964年。pp714
- ^ a b c 『全国百貨店専門店会商店会取引業者総覧 昭和32年版』 デパート新聞社、1957年3月15日。pp196-197
- ^ a b “会員消息・会員異動”. 日本百貨店協会通報 294号 (日本百貨店協会) (1956年7月1日).pp10
- ^ a b c d 『日本繊維商社銘鑑 昭和36年版』 東京信用交換所、1961年10月1日。pp1885
- ^ a b c 『戦後横浜経済十年史 続編』 横浜市立大学経済研究所、1958年3月31日。pp175
- ^ a b “松喜屋で増築、「住」に重点を置く。2日から営業”. 神奈川新聞(神奈川新聞社). (1960年11月30日).pp3
- ^ “横浜市のデパートめぐり 野沢屋・松屋・松喜屋”. 東京玩具商報 1958年4月号 (東京玩具人形問屋協同組合) (1958年4月5日).pp59-60
- ^ a b “松喜屋でIBM(電子計算機)導入、県内デパートでトップを切る”. 神奈川新聞(神奈川新聞社). (1961年1月31日).pp3
- ^ a b c “スーパーマーケット 松喜屋ついに踏み切る 立地条件悪く 29日から食料と衣料を”. 神奈川新聞(神奈川新聞社). (1962年9月19日).pp3
- ^ a b 『日本スーパーマーケット名鑑 1966年版』 商業界、1966年。pp171
- ^ 『Y校八十周年記念誌』 横浜市立横浜商業高等学校、1962年10月27日。pp120
- ^ a b 星野舜一郎 “デパートスクランブル百貨店業界を支える一〇〇人の旦那たち(その一二) 天下り形式で決定する神奈川百貨店業界の旦那衆”. 総合食品 1984年5月号 (総合食品研究所) (1984年5月).pp62
- ^ 星野舜一郎 “デパートスクランブル百貨店業界を支える一〇〇人の旦那たち(その一二) 天下り形式で決定する神奈川百貨店業界の旦那衆”. 総合食品 1984年5月号 (総合食品研究所) (1984年5月).pp61
- ^ a b 『日本百貨店協会統計年報 昭和43年度』 日本百貨店協会通報 309号 (日本百貨店協会) (1969年4月15日).pp9
- ^ a b ““消えた赤トーダイ” 「ほていや」と「松喜屋」の合併。強まるスーパーの資本系列化”. 神奈川新聞(神奈川新聞社). (1969年3月12日).pp3
- ^ a b “日誌 3月”. 旬刊商事法務研究 1969年3月25日号 (商事法務研究会) (1969年3月25日).pp25
- ^ a b 『日本スーパーマーケット名鑑 1970年版』 商業界、1970年。pp263
- ^ a b “新規上場企業紹介 ユニー株式会社”. 証券 1977年11月号 (東京証券取引所総務部) (1977年11月).pp68
- ^ 『富士銀行七十年誌』 富士銀行、1952年3月31日。pp40
- ^ a b c “Local Information”. 日本デパートメントストア協会通報 1955年8月号 (日本デパートメントストア協会) (1955年8月10日).pp6
- ^ a b 『職業別電話名簿 第26版』 日本商工通信社、1936年12月20日。pp81
- ^ a b 『横浜商工名鑑 昭和14年版』 横浜商工会議所、1939年12月22日。pp126