松井庄五郎
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松井 庄五郎[1](まつい しょうごろう[2]、旧姓・亀井[3]、1870年1月(明治2年12月) - 1931年(昭和6年)11月29日[3])は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。
来歴
[編集]奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる[3]。哲学館に学ぶ[3]。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業[3]。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した[3]。1931年(昭和6年)11月29日、死去。
松井について『帝国信用録 第32版 昭和14年』には「職業は質・煙草・自動車・人力、店舗又は住所は奈良西之阪、開業年月は大正6年」とある[1]。
人物
[編集]大和同志会の設立
[編集]1912年(大正元年)、大和同志会を結成し[3]、松井は初代会長に選ばれる[2]。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う[3]。
松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。しかし、山口県側で種々意見の相違があり頓挫するが、1914年(大正3年)6月7日、板垣退助、大江卓らの協賛を得て、日本初となる全国規模の融和団体「帝国公道会」が結成された[4]。
頌徳碑
[編集]松井庄五郎頌徳碑は、松井が生誕した奈良県奈良市西之阪の地にある[2][5]。
故松井庄五郎翁、大正元年創立、大和同志會推爲其會長至昭和六年病歿終始一貫盡庄同胞諧和貢献不尠其功績足以傳于不朽焉。衆慕其徳刻石柱之。
昭和七年三月十四日 大和同志會建。
白水明板誌。
石碑の建立日である「3月14日」は、明治天皇が『五箇条の御誓文』を皇祖皇宗の神々にお誓いあらせられ、さらに全国民に対して『億兆安撫国威宣揚の御宸翰』を下された日である[6]。
補註
[編集]参考文献
[編集]- 『帝国信用録 第32版』帝国興信所編、帝国興信所、1939年(昭和14年)。
- 『大和同志会と山口県の部落差別撤廃運動』北川健著。
- 『奈良県同和事業史』奈良県同和事業史編纂委員会編、1970年(昭和45年)5月、571頁。