東洋モスリン
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東洋モスリン株式会社(とうようもすりん)は、戦前の日本にあった紡織会社である。
沿革
[編集]- 1907年(明治40年)1月22日[1] - 資本金100万円で設立[2][3]。甲州財閥の重鎮神戸挙一が専務取締役に就いた。
- 1909年(明治42年)1月11日-1月13日 - 亀戸工場(東京府南葛飾郡亀戸町)で大規模争議。何者かが他社の賃金一覧を掲示したのをきっかけに、男女職工800人ほぼ全員が賃上げを要求しストライキに入った。会社は指導者33人を解雇するとともに、職工の評判が悪かった機織部長を免職し収拾させた[4]。
- 1921年(大正10年)頃 - 静岡工場が操業開始[5]。
- 1924年(大正13年)10月29日 - 総額500万円の担保付き社債を募集。このとき、資本金1800万円、総資産約2973万円、5工場と水力発電事業を保有、取締役会長神戸挙一、取締役筆頭は若尾璋八であった。[2]
- 1927年(昭和2年)5月30日-6月1日 - 亀戸工場で5000人がストライキ。女子工員(女工)の自由外出を会社が認めることで妥結した[1]。
- 1928年(昭和3年) - 上毛モスリン練馬工場を買収。 →「鐘淵紡績練馬工場」も参照
- 1929年(昭和4年) - 経営不振から若尾一族が退陣。門野重九郎が社長に就任し、郷誠之助や中島久萬吉の支援を得て整理計画を策定。
- 1930年(昭和5年)2月15日-2月28日 - 亀戸第一工場で、昭和恐慌のあおりを受けた操業短縮による工場閉鎖・解雇に反対しストライキ。[1]
- 1930年(昭和5年)9月26日-11月19日 - 亀戸工場で大規模争議。組合同盟日本紡織洋モス支部協議会加盟の従業員2482人(うち女性2062人)は、大量解雇反対を掲げストライキに突入、地域ぐるみの大闘争が繰り広げられたが、組合側敗北で終結した[6]。
- 1938年(昭和13年) - 東洋紡織工業に商号変更[7]。
- 1941年(昭和16年) - 鐘淵紡績に合併[7]。
関連人物
[編集]- 丹野セツ - 社会運動家。女工として働いた。
- 中本たか子 - 小説家。昭和5年(1930年代頃)の女工のオルグ活動に入った。
- 帯刀貞代 - 女性運動家。亀戸工場の女工を対象として「労働女塾」を開き、労働者意識と女子教育を組み合わせた教育活動を行った。1930年(昭和5年)の工場争議に参加・支援した。
脚注
[編集]- ^ a b c 大原デジタルライブラリー 大原クロニカ 『社会・労働運動大年表』データベース
- ^ a b 「担保附東洋モスリン株式会社社債募集」広告 大阪毎日新聞 1924.10.29 神戸大学 電子図書館システム 一次情報表示
- ^ 御幸百年史 第1章 創業(PDF)
- ^ 東洋モスリン争議[労]1909.1.11大原クロニカ 『社会・労働運動大年表』解説編
- ^ 静岡商工会議所開所120年特集(PDF)
- ^ 東洋モスリン亀戸工場争議[労]1930.9.25大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
- ^ a b “東洋紡織工業”. 東京大学学術資産等アーカイブズポータル. 東京大学. 2022年3月2日閲覧。