依仁親王妃周子
東伏見 周子 (依仁親王妃 周子) | |
---|---|
東伏見宮家 | |
続柄 | 岩倉具定第1女子 |
全名 | 東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ) |
身位 | 親王妃 →(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 →(皇籍離脱) |
出生 |
1876年8月29日 |
死去 |
1955年3月4日(78歳没) 日本・東京都 |
埋葬 | 日本・東京都文京区、豊島岡墓地 |
配偶者 | 東伏見宮依仁親王 |
子女 | なし |
父親 | 岩倉具定 |
母親 | 岩倉久子 |
栄典 |
勲一等宝冠章 |
役職 |
愛国婦人会総裁(1924年 - 1942年)[1] 大日本婦人衛生会総裁 |
依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年〈明治9年〉8月29日 - 1955年〈昭和30年〉3月4日)は、日本の旧皇族。東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。旧名は、岩倉 周子(いわくら かねこ)。皇籍離脱前の身位は親王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇籍離脱後の名は、「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」。
生涯
[編集]1876年(明治9年)8月29日、岩倉具定公爵の長女として誕生。はじめ華族女学校に学ぶが、東京女学館に転校して卒業[2]。安井春子(広瀬武夫夫人)に漢学を、西川清子(西川虎之助の長女、ヴィッカース慶大教授夫人)に英語とピアノを、中島歌子に和歌を、野口小蘋に絵画を、それぞれ師事した[2]。
1898年(明治31年)、依仁親王と結婚する。結婚後も教養や語学に磨きをかけるとともに、写真撮影を愛好し、夫妻で旅行を楽しんだ[2]。容姿端麗で、駐日の欧米外交官との社交で活躍。1893年(明治26年)に来日したオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントは、舞踏会で会った依仁親王妃の周子を「きわめて美しく魅力にあふれた女性」と評し、結婚わずか8日後に夫の依仁親王がヨーロッパへ出発したと聞いて同情したと記している[3]。
また、香淳皇后が皇太子妃だった頃の輔導役も果たした。社会事業にも積極的で、母の岩倉久子公爵夫人の跡を追い愛国婦人会、大日本婦人衛生会の総裁を務めた。東伏見宮邸では4頭の愛犬(ジョン、タンナ、メー、フク)を飼っており、食事の際には夫妻の膝に載ることもあったという[4]。
寡妃となった後も皇族女子として活躍したが、1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第14条の規定により、皇籍を離脱し、以後は「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」となる。1955年(昭和30年)3月4日、逝去。78歳没。
女優・小桜葉子の伯母であり、その長男・加山雄三にとって大伯母にあたる。
栄典
[編集]親族
[編集]- 父:岩倉具定(公爵、第4代宮内大臣、貴族院議員)
- 母:久子(沢為量子爵令嬢、岩倉公爵夫人)
- 弟:具張(公爵、宮内省御用掛)
- 妹:豊子(西郷従徳侯爵夫人)
- 妹:米子(水野忠美子爵夫人)
- 妹:花子(武井守成男爵夫人)
- 妹:季子(島津忠弘男爵夫人)
参考文献
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]